08

汚いけど、と前置きされた上で、開いた扉の先の光景ときたら、刺した釘が一瞬で弾け飛んだ。散らかっている、を通り越して汚い。遠くでタワーのようになっているのは、銘柄までは分からないけれども、老若男女に愛されるカップラーメンというやつだろうし、廊下の床には所々、タオルやらが散乱していた。まさに男の部屋という雰囲気で充満している部屋は何とも、うずまきナルトらしかった。これが、あの男ならば、と勝手に脳が変換にかけようとするものだから、自分で自覚がないだけ穴にはまっているらしいことに気付く。床に散乱している服や、得体の知れない物体を避けながら、部屋の最奥部へ行くと、幾分は小綺麗だった。それも、この光景よりも、だからあまり違いはなくて、どんぐりの背比べだ。

「ここ座ってくれってば、」
「…ありがとう」

唯一腰掛けられそうなベッドの上に座ると、ナルト君は「何か飲む?」と気を利かせてくれる。はたけさんが前に彼のことを、空気の読めない、愛せる莫迦だと笑って云っていたのを思い出した。多分きっと、彼は気持ちを汲み取りすぎて、表現が追いついていないだけで、そのちぐはぐさが憎めない少年を形成しているのだと思う。だから、いつも彼のことを話すはたけさんは幸せそうなのだろう。(ほとんどマスクで隠れてしまっているけれど)経験値が果てしなく零点に近い私は、男の子の部屋に入ったことがなくて、変に緊張したお陰で、仕事のことも、ついさっきの出来事もひとときだけ忘れられた。

「さっきはどうかしたんだってば?」

手渡された、男らしい大きさのマグカップの中には並々と牛乳がそそがれていて、お茶や、コーヒーとか一般的な来客用の飲み物を期待していた私は意表をつかれた。なるほど、はたけさんが云う空気の読めない、はこういうことなんだろうと、溢れそうな牛乳を眺めた。

「…ちょっと落ち込んでいただけだよ」
アカデミー時代から牛乳のことを好きになれなくて、いつもこっそりと残したり、隣の席だった男の子に飲んでもらっていたことを思い出す。本当は、好きじゃないんだ、とは云えず、ちびちびと口をつける。無意識に眉間に厭という気持ちが乗り移り、険しさを演出してくれたお陰で、ナルト君はただならぬ出来事に見舞われたのだと解釈して、私に詰め寄った。

「そんなに厭なことがあったんなら、相談に乗るってばよ!俺ってば、この間、やっと考えることが出来るようになったんだ、ってサクラちゃんに褒められたんだ!」

それは褒めていないよ、と思わず突っ込みをいれたくなったのだけれど、手にした、一向に減りそうにない試練と、多分そのサクラちゃんのことが好きなナルト君に、何かを云う気分にはなれなかった。窓際には物は何もなくて、直接太陽光が部屋に入り込む、金髪が合わさって汚部屋を照らした。本当に綺麗な子だ。

どろりとした、気持ちを吐露してしまったら、この綺麗な固まりを汚してしまいそうで、憚られる。それに、相手は彼の良く知っている相手で、たまに将棋で遊ぶとかなんとか、聞いた事があったから余計に云えなかった。その上に、彼は私よりもずっと年下の男の子だったし、本心は云えそうにない。

「ただ、ちょっとね」
揺れる白い波に、目移りすると、そこから思い出したくもない男が浮き上がって、指先を凍えさせた。気まぐれを起こした男の行動に一々気を取られて、仕事を放棄して逃げ出してしまうなんて成人した身としては褒められたことではない。本来ならば、逃げ出すべきは相手の方で、椅子に普段通りに腰掛けていいのは私の方だと思うのに、ただ感情の趣くままに吐き出した気持ちは、分からなかった。本心なのか、違うのか。奮い立たせて、口をつけた牛乳は半分以上は残っている。顔を上げて、ナルト君を見れば、彼はぎゅっと眉間にシワを寄せて、難しい、を作った。

「ちょっと、って何だってば。…あ、もしかしてアイツまたねーちゃんを困らしたのか?」
「……アイツ?」

生憎、あまりアイツについて、会話を広げたことがなかったから、おうむ返しをする私に、あれあれ、と今度はあれを使った。「アイツだって、シカマル!ねーちゃん、一緒に仕事してんだろ?」

シカマル、と溢れた言葉に頭が解釈を拒むようで、針を突き付けられているように鳥肌が立つ。仕事をしていること、話したこともなければ、こうしてナルト君と同じ空間を共有することも全くない。厭、という気持ちを全身で排除したくなったのか、腕が大きなマグカップを投げてしまいたい衝動と戦っていて、震える。

「ヒテーしないってことは、図星だろ!」

思いを汲み取るのが上手いのか、私が感情を全面に出しているのか、それでも、答えを見つけた嬉しさを全身で現す彼には、敵わないと思った。「……ち、違うよ」震えと戦っていた私は慌てて取り繕うと口を開けば、舌が牛乳で麻痺して上手く行かない。

「……わかりやすすぎだってば…」

違う、これは苦手な牛乳のせいだよ、と言い訳を渦巻かせて、舌を貼付けさせた液体は、更に私を追いつめようとかさを増やしにかかっているようだった。実際は腕の震動が波立たせたそれを多く見せていただけ。私よりも感情の起伏をみせる、男の子に云われた事実よりも、ナルト君が呟いた、言葉に気を取られて初めのことはどうでも良くなってしまう。処理能力の悪さにまた男が莫迦にしたような、鼻につく笑いを向けられた気がして、胸がきりきりした。もうこれは、憎しみから沸き上がる、痛みではないことくらい知っていた。けれども、それを受け入れられるほど、無鉄砲な気持ちは、十代の頃に捨てて来てしまって、自らという勇気には繋がらない。

「…ちょっとシカマルの気持ち、わかった気がするってばよ」

心中掻き乱す、相手の名前に反射で顔を上げると、気付く。
私は昔から、隠し事を上手くできないこと、相手の眼を見ないことでやり過ごそうとすること。カップの中身ばかり気になるのも、厭だからという理由ばかりではなかったのだと、思った。ナルト君の云う、男の気持ちというのが掴みきれずにいると、「ほら、」と手渡された箱の上部にはちり紙がひらひらと揺れていた。

「ど、どうして…?」
豪快な渡し方に対してなのか、唇に生暖かい雫が伝ってきて初めて、泣いていると知ったからか、分からないけれど、問わずにはいられなかった。忍として、情けない、本当に、と叱咤する心持ちを、彼は「気にすんなって」という一言にまとめた。なんて、簡潔で清々しい言葉なのだろう。自尊心や、世間体を第一線に持っていって行動力への枷をはめる私とは違う。頑張って口にした、牛乳は塩気に汚染されて、すこし美味しいような気がした。箱ごと渡されたティッシュを数枚使い、涙を止めたのを見計らって、怒られるかもしんねーけど、と誰かに良く似た口調でナルト君は云った。

ねーちゃんと居ると、素になれるから心地いいって云っていた。あ、後直ぐ反応するからついつい虐めちまうって、子どもみてーだろ!」

子どもみたい、とまた簡潔にまとめた彼の潔さを、覆うように、全ては別の方へと向く感情線は、ぐちゃぐちゃになる。機嫌の悪さを常備携帯されていて、ことあるごとに小馬鹿にしたようなものの云い方や、横柄な態度から、心地の良さは見当たらない。彼が口からでまかせを云っているのかもしれない、と勘ぐるところが、大人になり身に付いた懐疑心という物の効果だと思った。うずまきナルト、という少年は嘘はつかない、と根拠を差し出せる程、知り合ってもいないのに何故か信じようという気持ちを抱かせた。けれど、にわかには信じ難いことだったから、私は混じり合った白黒つけられない感情を持て余す。持て余した感情が口にした。

「そんな筈はない、私、のことは」

嫌いと云って、嫌っていると思ったから、否定が口から溢れでてくるけれど、それが本心ではないからか上手く紡いでいかず、喉元でくすぶった。たんのようで、居心地悪く、吐き出したくてたまらないと云うのに、理性が止めようとする。一度止まった感情線が、許容量を超して飛び出してきそうになって、今度は自覚を持っていたから、ぐっと堪えようと努力をした。私より、分かりやすい、素直さを持つ、眩しい少年が隣で笑う声がする。

「堪える時、唇を噛むんだぜってシカマル云っていたけど、本当なんだな」

無遠慮にも覗かれる、泣きそうな顔を、引き締めたいが為にと言い訳を付けて否定したけれども、唇に入っていた力をなかったことには出来なかった。くつくつ、と笑う彼が少し憎らしくなり、それがあったから、また泣きそうだった気持ちはどうにか収拾をつけられた。そう、彼がする無遠慮さや、他者がすることにはある程度、寛容な気持ちを抱けるのに、初めからそれらを破壊していた。もしかしたら私は初めから。