自分の自覚と、相手の本心の両方を一度に受け止めてしまったものだから、ナルト君と別れた後にまたあの場に戻って、という選択肢は出てこなかった。明日のことを考えたのなら、足は事務所に戻らなくてはいけない筈なのに、出来ずに、気が付くと自宅に戻っていた。明日の風は明日吹く、と自分に誤摩化して、謝りを入れることも全て翌日へ持ち越す事にした。当然のこと、明日の相手が彼であるのか否かはハッキリと覚えていないし、運が悪かったならこの先暫く会わない、なんてこともザラにあることだから、本当は今すぐにでも、戻った方がいい。外を見れば、すっかり暗幕を太陽にかけて、静けさを与えてくれていて、もう誰も残っていないのだろうと、思う。けれど、と行かなくていい理由を捜している自分に嫌気がさしそうだった。
「アイツ、滅多に他人のこと云ったりしねーけど、ねーちゃんのことはオカシそうに云うんだぜ」
そう云いながら、私の手にしていた牛乳入りのマグカップは、容易く奪われてしまった。まだ並々とそそがれている、それが欲しくもないくせに「あ、」と声を漏らすと、ナルト君は彼とそっくりなしたり顔で、唇を緩めた。
「実は牛乳がキライっていうのもきーてたんだけど…試したりしてゴメンな」
道理でそっくりなわけだ、こんな時でさえも弄られるなんて、もともと私の威厳なんてものは無いらしい。もっとも、ナルト君は誰に対しても気さくで、正直だと聞いていたから、私に限ったことではないだろうけれども、なんだって一番嫌いなものを、とすこし恨んだ。けれど、それよりも、彼が私の嫌いなものを知っていた、ということに驚いてどうでもよくなる。ビリビリとした舌先で歯を撫で、気を紛らわせようとして、試されてやしないかとナルト君を見れば、涼しい顔をして「なんもしねーって」と笑った。やっと牛乳から解放された両腕は、驚くほど軽くなって、ナルト君は悪戯が成功したと、喜びに溢れさせながら、私から奪ったそれを飲み干した。
勘違いでなければ、ナルト君が云った、彼の、私に対することは、嫌悪からではない。勘違いでなければ、私の、彼に対する、奈良シカマルに対することは、好意からだと思う。なら、本心を引っ張りださなければいけない。彼のあてた、薄い皮膚から伝染する熱さの意味、云いかけた彼の真意、全てを遮断する前に映った、彼の表情。
頭を冷やしたくてベッドへ入り込んだものの、一度そこへたどり着くと神経は研ぎすまされ、瞼はどんどん軽くなるばかりだった。反芻されるようになる、細められた瞳と微かに震えていた睫毛が胸を満たしていく。なぞられた唇からは、戸惑いが見えなかったのに、眼は口ほどに物を云うという、アイキューがいくら高かろうが、人間の内蔵は平等に出来ていて、彼もまたそれにあてはめられた。静寂に思考を冷やされて、鮮明になっていく事実に、息苦しくもなり、痛みも伴った。もし、明日会えなかったら、どうするのだろう。明後日になったら、急な任務で遠征に行ってしまう可能性もある。そう、思ったら居ても立ってもいられなくなった。
「………、ハァ、」
適当に着込んだ服が、思ったよりも厚くて、慌てて飛び出した身には重たくて、熱かった。誰も居ないだろう、と立てた予測は外れず、外観からみる建物は大きな魔物のようで、熱さを冷ますには丁度良かった。誰も居ないと分かっていても、家に戻る気分にはならず、魔物のような建物の口に身体を滑らせた。朝や昼に感じる暖かさが跡形も無く消えた廊下は、普段通っているとは思えないほど、恐怖心を煽るには十分で、寒くはないのに身が縮こまった。その分、窓から差し込む月の光や、木々の合間から漏れる、商店街の人口光が目立ち、廊下を飾り付ける電飾のようで、気を紛らわすには丁度よかった。
「……あ、……」月の光とは違い、暖色を持った光が一筋、奥の方でまっすぐ廊下を照らして、誘うようだ。暗闇の中はっきりしないけれども、間違えでなければいつも事務をする部屋、半日前に飛び出した場所からの誘いに、乗らない手はなかった。今は夜中手前、今日が今日でなくなる、明日をまたごうとしていて、不思議な感覚が全身を支配する。任務の時とは違う、緊張感が身に纏われ、自分の足音さえも過敏に感知して、床の刷れる音がこだましていくさまは、まるで相手に誘いを受けると知らせているようだった。
「…………」
筋の入った扉に、手をかけて指先に力をこめる。扉の重さが自分の緊張と、胸の重さを代弁して、マグカップを持った時よりももっと、ずっと震えた。その所為か、手にかいた汗のせいか、面白いほどに指は金具から外れて、暗闇に指先が投げ出される。(こんな年になっても、こんなになるなんて、ね)両手に息を吹き付けて、和らげようと試みながら、一度滑らせて空を切った指先をもう一度かけなおして、力を込める。スライド式の扉は、拍子抜けしてしまうくらいに呆気なく開いた。
散々擦られてきた敷居が、非難するかのように音を立ててはいるものの、入室することに対しては不満ではないらしく、扉はするりと流れる。夜目に慣れてしまったためか、急な眩しさで何も見えなくなった。夢の中を漂うような、曖昧さが頭を支配しそうになりながら、光を避けて落とした視線が見つける。
(生意気で、偉そうで、年相応の可愛げがない、)
それなのに、眼が離せない、憎らし気で見ていた筈なのに、気になって仕方ない人。奈良シカマルは、最後に目にした時と同じように椅子に腰掛けていた。ただ違うのは、そこで背中を丸め、上半身は机にもたれかけて睡眠欲求を満たしている最中らしいということ。何故、こんな時間に、と云うことも、恨み言のひとつでも云おうと思っていたことも、全て砕けた。姿も見たくなかった筈の、彼に、近づきたくて、身体は自然と距離を縮めにかかり、広さを持っていない部屋ではあっという間に触れられる近さになる。普段の彼ならば、聡く気配を受け取り不機嫌そうに「何すか」と云うだろう。普段の私ならば、それに対して「生意気な、腹立たしい男!」と憤慨していた。
(それなのに)
それなのに、今の状況下では過去のどちらも成し得ずに、静寂という名の沈黙が居心地良くしてくれている。頭を机に預けたままに、固く閉ざし、聡明な双眸は見る事は出来ず、憎々しい言葉を吐く唇はすこし力の抜けて、開いた隙間から空気を取り入れていた。まだ十代の少年と青年の境に居るというのに、眉間に刻まれた縦ジワはくっきりとして、気難しさを見せ、壮年の大人のようだ。
(それでも、子どもみたい…というか年相応……)
覗き込んだ、奈良シカマルの顔はそれでいて、あどけなさがまだ随分残る少年のものだった。一度は不意をつかれ、寄せられた顔に残る子供らしさは胸を暖めるのには十分で、それでいて視線は、薄く開かせた無防備さに眼が行く。痛みはとうに、何処かへ行ってしまっていたし、ズキズキとしていた胸の内はもう、ドキドキと愉し気で、自分自身の切り替えの早さに呆れ半分、眼が開けば、と期待半分だった。握られたままのペンや、下敷きにならないように避難させてある書類たちには、細々とした字が記入されて処理済みを示していた。原因をつくらせたのは、彼であることには間違いないのに、彼の言葉や言動が天邪鬼によるものだと知ってしまったからには、良心が変わりに叱責する。本当は、知っていたのかもしれない。彼の本性を、それでも認められなかったのは自分の自尊心のせいなんだっていうこと。
「…………」
「…………」
開いた口からは、息がか細く漏れて、やましいことをしていないのにしているような気分になる。到底信じられないけれど、皮が捲れ気味の唇と、似たような状態の私のと、合わさったのだと、勝手に探りを入れた記憶回路が、出来事を思い出させてくれる。同意も、お互いの感情下が底辺であったものだから、不慮の衝突事故みたいなものだけれども、全身が神経でできているかのように、敏感に思い出す。ここまで近づいても尚、奈良シカマルは机に突っ伏したまま、気怠気な瞳は持ち上がって来ない。
「………ごめん」
何に、対してか、不明虜ではあるのに、口が先に主導権を握った。静かに落ちていく謝罪は、夜中になった現在では益々静けさを浮きだたせる材料になる。眉一つも動かない表情筋が、些か恨めしい。まるで、自分だけが、意識をしているようで。
「…………」
「————…、すき…」
見ていたら、感じたら、勝手に感情が吐露して、口から滑り落ちた。
睡魔に意識を奪われている間には、吐き出した言葉など、聴こえていない筈なのに、慌てて彼から顔を離す。出たものを必至で戻そうとするかのように両手が、唇を覆い、連なるように息まで止めてしまって、苦しい。目の前の奈良シカマルは夢の中へ落ちていて、こちらには見向きもしない。(俺は、)頭の中の奈良シカマルが、呟きざまに、涙袋にシワをつくり、私を惑わす。そこに出来るにはまだまだ先だ、と思っていたのに大人びた彼には時折、そこにシワが寄った。
酷く、目障りだと思っていた、高く結われている髪の毛の剛毛感が、心情を小突いてどうしようもなく、この男が、奈良シカマルが好きだと私に耳打ちする。微かにふるえの残った指が触れたい、という衝動欲求を私に投げ掛け、それを甘んじて受けようと思った。
「………夜ばいっすか……案外大胆すね」
「……おッ……お、きて…!」
身じろぎひとつしなかった身体も、眼も、寝起きとは思えない程に、はつらつとして、起こした身体には違和感を持ったのか「痛い」と嘆いた。伸ばした指先は宙を彷徨ったまま、彼に気付かれないように定位置に戻し、何事も起こしていない態を装った。いつも通りの面倒くそうな、覇気のあまり感じられない瞳が、私を容易く捕まえる。数歩、離れていたところでたかが知れている距離感に、早くも逃げ出したい衝動に駆られ、ドキドキと緊張していた心は既に限界点に達しそうだった。簡単に捕えられたその双眸から、この空間からも今すぐにでも逃げたい。欠伸を噛み締めながら、筋肉を伸ばしていても奈良シカマルの瞳は、私から逸れることはない。
「起きようとしたら、アンタが来る気配がしたんで」
「たっ、狸寝入りだったの…!?さいて…」
「勝手な思い込みに巻き添え食らったのはこっち、貶される覚えはないっすけど」
口角をやや上げて、企みが曲がらずに通ったと喜びを見せた姿は、今までのどの奈良シカマルとも当てはまらなくて、なんて、酷い奴と、思ったのにそれは一時のものだった。もう知っていたから、それが、照れ隠しからくるものだっていうことにも、こっそりと耳打ちをしてくれたナルト君の言葉に当てはまった、彼の仕草が証拠だった。「俺は、」唐突に、彼は自己を主張しようと言葉を紡ぎ、記憶の中の奈良シカマルと、目の前で意地の悪く、酷く分かりづらい笑いを見せている奈良シカマルと重なる。
「俺はあんたのそういう処、」
私の、心中は決して穏やかではなく、視線を唇にもっていこうか、それともだるさを孕んだ眼に向けようか、おろおろと彷徨う。そういう処、で止まってしまった彼の言葉端は、私の気のせいでなければ少し、固くて次に繋げるのに必至に思えた。そう、それは普段見せていた奈良シカマルという男の皮ではなくて、年相応の羞恥心を持ち合わせた少年の姿。
「…………」
「………あー……っとに、めんどくせー」
唐突に彼は頭を掻きむしり、常套句を吐き捨てて、自身への不甲斐なさを、折角綺麗に結われてあった髪の毛にあたることで、発散させた。所々ほつれ気味になったそこは、私が触れたいと思って手を伸ばした場所。昨日までの私ならば、きっと自分に向けられているものだと、受け取って盛大に憤慨したに違いない。「失礼な奴だ!」と。けれど、もうそれは沸き上がってこない、目の前に居るのは、恥ずかしさを隠す少年。些か、目つきが悪く、椅子に踏ん反り返ってみえるけれど。
「……俺、」
「…うん…」
「この通り、捻くれてるっつーよりはひねてるし、アンタの不快を仰ぐことしか云えねーけど」
「、うん」
「俺は、」何度目か、の途切れ。
その先は、云われなくても何となく、分かっていたけれど、私にもオトメゴコロというものがあったらしく、きちんと言葉を聞きたかった。奈良シカマル本人の口から、狸寝入りして、騙したのだから少しくらいは困ってくれないと、年上としての立場が全く無くなってしまう、喩え毛ほど程度しかなくても。あのオンナノコのように、可愛げなんて全く無くても、そうでありたいと思えるのは、きっと。
「俺は、アンタの…さん、の…こと、…嫌いじゃない」
「…………」
「………黙り、っすか」
だって、と胸の内に隠れた私が云う。不満げに眉間に寄せられたシワが少年らしさを奪って、逃げようとする姿は、ちぐはぐで、少しおかしかった。私の返事なんて、もとより知っている筈だから、要らないとは思うのに、奈良シカマルは不満げにみえる、表情から私に催促をする。欲深き人間は、もっと言葉を欲して、その上を求めて、嫌いじゃない、という言葉が彼にとって最上級であることも理解を得ているのに、私の最上級を差し出してほしい、だなんて。けれど、それよりも彼が、奈良シカマルが初めて呼んでくれた名前が、その最上級に取って代われるものだとは自分でも予想外だった。
「…名前、初めて呼んでくれた、ね」
「———…ッ……恥ずい、んです」
「うん…知ってるよ」
教えてくれたもの、ナルト君が、と云うと彼は「アイツ…」と恨めしそうに宙を睨みつけたとしても、普段冷静さを持っていた頬が微かに赤みを差していたから、効果はない。視線が外され、交わり、落ちて、を繰り返しても彼の戸惑いはもう隠せないようだった。何度でもさん、と呼んでほしくて全身がびりびりした。牛乳を差し出された時とはまた違う、感覚に、舌が癖をなぞる。それを目敏く見つける、彼は、やや慣れた様子で笑う。
「その、癖、」
洩らした、言葉に急いで舌を奥へしまい込んだけれど、無駄なあがきだった。直すから、と云いながらまた緊張感で舌が動き出そうとして、自制をきかせるのは大変そうだと、思う。その様子に彼は、一旦、難し気に唇を引き締め、身体が規律ただしい姿に戻ろうとして椅子も共に矯正させられ、抵抗の変わりに悲鳴をあげた。
「……好きなんで、そのままで」
と、私が慌てて唇を覆ったように、彼もまた出た言葉を戻そうとするかのようにそこへ手をやった。云うよりも、云われることの方が恥ずかしいのだと、知って、つられて頬に熱があつまっていくのを感じた。思いの交差に、些か余裕を感じていた私は、仕返しとばかりに、呼びかけたことが無かったことに気付いて「シカマル君」と彼を呼んだ。そうすれば、彼の頬色が耳へと色移りしていくのが、見られて、彼の本心が分かるから、私の愛情は名前でも好き、でも無くなって、二転三転とひっくり返った。