「ヤマトのバカ!」

言葉だけ聴けば軽い貶し文句のようだ。けれど彼女はこの言葉よりもずっと怒っていた。部屋から飛び出した彼女はヤマトが静止をかける暇もないほどの早さで出て行った。莫迦、なんて久しぶりに云われた気がする。忍世界では実力派と呼ばれるヤマトを誰もそんな言葉で彼を呼ばないからだ。畏怖と尊敬、それを集めていたのがヤマトだった。軽々しくそんな言葉は口にされない。けれど彼女はいとも簡単に彼にそれを口にした。追いかけようと窓の外から小柄な身体を捜すけれどその姿は全く見える気配がない。瞬身の術を使ったのだろう、と気付いたのはそれから些か遅れてからだった。自分にしては珍しく動揺しているのかもしれない、とヤマトは思った。冷静に自己分析をしているあたり、動揺という言葉は正しいのか、分からないが。

追いかけようと思えば追いかけられる。瞬身の術で何処かへ行こうがヤマトはこれでも暗部、という忍世界の裏面を背負っている人間だ。追跡しようと思えば出来る。けれどそれをしなかったのは彼女の、の言葉が何故自分にかけられたのか分からなかったから、というのもある。追いかけてしまったらそれを肯定することになる。しかし、この自分が珍しく動揺というものを見せているのだ。追って捕まえたいという衝動に駆られないでもないが、理由の分からない怒りの為に追いかけるなどと、と反面思ってしまっている。冷静に分析するよりも女は追いかけて欲しいものだ。だというのにこの男ときたらどうしようかなどと理性を傾けているだけだ。これがヤマトの恋人同士状態が長続きしない理由だ。

(半年か、)

と恋人と云う関係になってから、もうすぐ半年だ。
思い返せばこれが一番長続きしている気がする。殆ど半年とも持たずヤマトに別れを云う者ばかりだったからだ。思い出そうと思っても名前の片鱗すら思い出せない、自分の中で彼女たちは記憶の片隅においておくことすらない。倉庫にしまって厳重に鍵をかけているかのように顔も一向に浮かんでこない。その程度だったのだ、恋人という存在は。彼女たちが悪かったわけではない、けれどどうしたって一般人と忍では違いすぎる。血にまみれて帰ってくるのを理解出来ない。記念日を祝えないのも理解出来ない。共に過ごす時間がごく僅かというのも理解出来ない。普通の二人ではいられない。それに嫌気がさしてしまうのだ、ヤマトよりもずっと早く。ヤマトは理性を抑え、窓の外を見やるのをやめた。そうしたって彼女が顔を出してくれるわけはないし、暫く続いた第七班との任務で随分疲れていたからだ。表に出るようになってから裏任務は全くと云っていいほど無かった。それも表の、ナルト達のお目付け役のようなことをしている所為だ。裏も大変だったが憧憬している先輩、はたけカカシの代わりは思ったよりも気苦労が耐えない。サスケ奪還の任務から随分班の雰囲気は丸くなったが、ナルトの理性を抑えるという行動が出来ず、本能のままに突っ走っていくのには毎度の事冷や汗をかかされていた。

けれど彼が眩しく映るのも確かだ。羨ましい、と云ったらそうなのかもしれない。忍としては命取りなのかもしれないがこうして恋人が飛び出していったのも追いかけられず、本能のままに、心赴くままに走り出せない自分が酷く恨めしい。

(恨めしい、と思っていたのか。僕は)

自分自身を、恨めしいなどとここ数年は思ったことがなかった。久しぶりの感情だった。昔のように心の底からわきあがる憎悪、とはまた違う。もどかしい、が近いのかもしれない。任務とかではないのだ。理性を叩き壊して、零れ落ちかけている存在をこの腕に抱けば、いいのだ。いいはずなのにそれが出来ない。先にどちらに利益があるのか、無意識のうちに頭の中で計算をし答えを叩き出している。そして少しでも本能に分が悪いと思ったら足はぴくりともしない。何か変わるかもしれない。その理性を壊せば。簡単なようでとても難しい。

「てん…ヤマトはさ、何でそんなに苦しんでいるの」

が不思議そうに尋ねてきた。今はヤマトだからと云っているのになかなか覚えない。いつも第一声がテン、だ。格別テンゾウに思いがあったわけではないので家ではテンゾウで、とは云わなかった。同じ忍なのにあまり耐えるという事はしない。まっすぐに答えを求める。渇望する、そして分かっても絶望はしない。深く考えて私は、の自身の言葉を云う。それがとても好きだった。眩しい、のだ。ナルトに抱いた感情と些か似ている。違うと云うなればこれは恋だった。本能に耳を傾けた自分はいない。けれど心のどこかで傾けたい、それに従いたいと苦しんでいる自分が居るのをは簡単に解いて見せた。忍だから分かったのではない、彼女だからだ。

「だからね、もしどうしても苦しみから抜け出せなくて、どうしようもなくても私が代わりに走ってあげるからね」

そう云ってくれた彼女は自分を置いて、まだ思考を巡らせているヤマトには思い当たる怒りはない。苦しんでいるヤマトのかわりは何処かへ消えてしまった。時間はどれほど動いたのだろう、ただ分かるのは窓から背を向けたヤマトを照らす光が色を変えたことくらいだ。耳を澄ますと鳥が帰りの声を出す。どの光も今のヤマトには眩しい、視線をおろすと畳の目が痛いほど並んでいる。床がそれなのだから果てしない長さなのは仕方ないのに、むしょうに苛立った。畳の目でも数えて心を落ち着かせようと思ったのに逆上させてどうする、とヤマトは眼を瞑り世界から心を閉ざした。

(——かたん、)

眼を開くと玄関の扉が僅かにゆれていた。驚きで、足は理性に反して立ち上がる。あれほど動かなかった足はすんなり動き畳の上を歩む。苛立った畳の目はまったく意識がいかない。動揺している、と云ったらそうなのかもしれない。珍しく逸る気持ちを抑えて手がじんわりと冷えるノブをひねった。かちゃん、と鍵が取れる音と古い扉の錆びた音が続いた。

「………どうしてそこに座っているの」

うまく扉を避けて壁にもたれかかって腰を下ろしていた、恋人を見下ろした。とくとくと胸が弾むのが分かる。(何てざまだ、こんなにも喜んでいるなんて、)はヤマトを見上げ、少し困ったように眉を下げた。自分でも分かっていないような、そんな表情だ。

「……、なんで、かなあ」
「なんだよ、それ」

無意識のうちに唇から笑みが漏れる。それにつられても恥ずかしそうに笑った。莫迦、と云って飛び出した彼女は何処かへ飛んでいったわけじゃなくずっと外に座っていたのだ。怒りは何処へいったのだろう、理由はなんだったのだろう、と疑問をそのまま口に出せるほど素直ではないヤマトは入る?と云ってひとり分のスペースを空けた。は砂を払うように何度か半身を叩いて、ヤマトの隣に入り込んだ。今度は鍵音が錆びた扉の音を追う番だった。もう戻ってこないかと思った、と口にしかけて止めた。ヤマトの予想に反しては扉の向こう側でずっと座っていたのだからこの言葉は無意味だと思った。

「、ごめんね」

何に対しての謝りなのか、ヤマトは一瞬分からず背にかけられた言葉に振り向いた。
は借りてきた猫のように静かで部屋の奥へと歩いているヤマトとは少しばかり距離があった。はヤマトから視線を外して壁にかかっている暦に眼をやった。今は真夏の真っ只中八月の、十ばかり過ぎた日だった。扉を開けたときのように些か恥ずかしそうに唇をすぼめた。

「今日、ヤマトの誕生日でしょう」
「……そう、だっけ…か……ああ、確かにそうだね」

ヤマトも同じように視線をめぐらす。直ぐにが暦に眼をやった理由が分かり、肯定した。すっかり忘れていた。誕生日などというものは只の確認に過ぎなかった。身体の年齢だとか、歳相応の振る舞いをするためだとか、上下関係、忍世界でのあれこれ。たいしたことではない、と思ってしまうのが駄目だった。勿論自分のを忘れているのだから恋人の記念日などと覚えているわけがない。しまったというヤマトの表情を汲み取ってかやっぱり、と云う表情が返ってきた。

「他の記念日なんてどうでもいいの。でも誕生日だけはちゃんと祝いたくて、考えていたのにヤマト、どうでもいいって云うから…なんか腹立っちゃって。………莫迦は私よね」

押し付けるものじゃないのに、と指先が髪の毛を弄る。彼女の癖だ、淋しさを紛らわせるときにするちいさな、悲鳴。冒頭の怒りの理由と今の状況がすべて繋がる。ヤマトは髪の毛を弄る自分よりも随分小さい身体に手を伸ばした。飛び出した彼女を捕まえるか否かで悩んだとは思えないほど呆気なく腕の中に閉じ込めることが出来た。刹那震える身体にヤマトは説明できない面白さが溢れて肩をくつくつと揺らす。それを身体全体で感じ取れるは顔を赤くし、ヤマトを見上げた。その眼は何がおかしいの、と云った憤慨の色を示していた。何もおかしくはない、と答えるようにヤマトは腕の力を気持ちひとさじ分強くした。

「肝心な処で強情だね」
「、ヤマトには云われたくない」
「それもそうだ」

まだ暫く名前につっかえるであろう恋人に、ヤマトはまた笑いがこみ上げてきた。

ラビット・ホール

2012/08/10|Happy Birthday!