聴き慣れた声が自身の名前を呼んだ。しかし、こんなに甘い、声色だったか。砂糖菓子を唇に含んだような吐息がピアス穴の隙間を刺激した。身体を震わせ顔を上げると、天と地がひっくり返っても自身には向けてはくれないであろう柔らかい表情をしたがそこにはいた。確かついさっきまで書類の山に襲われていたところではなかったか。隣にはたまに仕事を共にする中忍が座っていたはずだ。勿体無いと云わんばかりに動かない頭を無理やり横に向けた。けれどそこには綺麗に片付いた書類と、ぽっかりと空いた椅子が寂しそうに存在していた。眠気からなかなか開放されないシカマルの耳元でまたがシフォンケーキのような柔らかさで呟く。

「もしかして、まだ寝ぼけてる…?」

無理もないよね、さっきまで仕事に追われていたんだもの。と未だ状況が把握できていないシカマルを代弁するかのように云った。都合の好いことだ、シカマルは直ぐに冷静になった。自身の記憶に間違いなどなければ彼女は非番のはず。しかも非番の人間が態々仕事場に、ましてや笑顔ひとつ見せたこともない相手に会いにくることも到底考えられなかった。よって、これは自分に都合の好いように改変された現実を模した夢なのだと悟る。顔を思い切り顰めたシカマルの表情からかそれとも内心を知ってかは途端に甘い息を口内に留めた。

「………」
「………」

途端に甘い香りは消え、沈黙が二人を包んだ。これではまるでいつもの二人のようだ。とシカマルは夢の中にまでこの状況へと持っていく自分が厭になった。この間もそうだった。早朝からの呼び出しになかなかぬぐい切れない眠気に苛立ちを感じながらきた時も。は相変わらずシカマルに対してだけは仏頂面を貫き通して、他の忍と鉢合わせると途端にそれは眩いばかりの笑顔へと面を変えるのだった。その素早さにシカマルは内心舌を巻いたものだが、どうにも面白くなかった。その理由は云わずともしれた本能と云うもの。心の奥底に隠しておいた独占欲が無意識に働いていることくらい自身でも分かっていた。だからこそシカマルは余計に気に食わなかった。

「猫かぶり」
シカマルはつい口から言葉が転がり落ちた。それを聞き逃すほど距離は開いていない。はしかとそれを耳にいれた。他の忍に見せた笑顔の面はぱりぱりと一瞬で砕け散る。シカマルに視線をやることもなく唇はきゅっとしまり、ゆるく弧を描くことを一切赦さなかった。それが、との最後の記憶だ。


「…ねえ」

夢の中で夢を見るなんて芸当そうそうできるものではない。シカマルはまさに今それをやってのけた。の声で我に返る。非現実の世界なのだから好きなことを想像して、普段理性で縛っている事を洗いざらい吐けばいい。刹那そんな考えが過ぎったが自分の性に合わない、とも思った。

「………なんすか」
「もう、なにその口調。付き合う前に戻ったみたい」

幾らアイキューが天才と呼ばれる数値を出していたとしても眠気の強さには勝てなかった。寝ぼけた頭で、の云った言葉を考える。付き合う、とは何処にだ。しかしそれなら口調に対して不満を云うのはおかしい。何処、から、誰、へと変換していった時には流石に意味を理解した。それが誰と誰かも。夢の中だと云うのにの口から到底聞くことのできないものだ。否、夢の中だからこそ聞ける非現実的なもの。それを認めてしまうとなればそれは夢のままで終わってしまうのだ。困惑するシカマルをは優しく云う。

「ずっと仕事だったから疲れているんでしょう?」
ああそうだ、確かに疲れはたまっている。空想の中でも疲労を持ってくるとは相当なものだ。シカマルは独りごちた。しかしそこで終わらないのが空想というもの。シカマルはの云う言葉に目を落としかけた。

「だから、早く帰ろう?お家でご飯も作ってあるんだよ」
「………は…」

家でご飯もということは夕飯を共にするのは常ということで。帰ろうと迎えに来たということは帰り道も同じと云うことで。それでもって付き合っているということは、もしかして。この時ばかりはたどり着く結論の早さに自身を恨む。現実味を帯びている非現実の世界ではとシカマルは付き合っている以上に既に同棲までしているのか。

いつもは冷静な態度を崩さない男もこの状況ばかりは開いた口が塞がらず、それを押しのけてまで胸弾ませる自身が居る事にも気付いていた。まさかそんな、自分自身がこんなにも単純なつくりだったのか、今更ながらに知る男という生き物の楽なつくりに頭痛がする。は相も変わらずシカマルに笑顔を向けている。高鳴る心臓、何か云わなくてはと乾く喉元。

「………」
「どうしたの、シカマル」

かくん、と可愛らしく首を傾げる仕草は現実世界のではありえない可憐さだ。心臓の音が煩くなる。酷く煩わしい。自分自身を出せない相手を目の前にしたことは今までなかった。今までなかった、その事実がシカマルの心を留めた。「シカマル…?」甘い声色で呟かれる自身の名。自身が欲しかったのは本当にこんな穏やかな彼女なのだろうか。途端に緊縛されていた心は紐解かれ、ふっと軽くなる。そうだ、自分が求めているのはこんな穏やかさではない。彼女に求めているのはこの優しさではなかった。もしそうならばあんな態度で接したりはしないだろう、些か好きなものほど苛めたくなるという子供の思考が入り混じっているが、そこは割愛させて頂くとして。パリパリと崩れていくかわいらしいの顔がシカマルの視界に映る。

「シカマルの大切な人は、私じゃないんだね」

少し寂しげな顔を見せた彼女に手を伸ばした。
温かく、非現実なものだとは思えないほど現実の彼女に似ていた。シカマルの想像を駆り立てていたままの頬だ。

「………顔は良く似てんだけど、な」

「そっか」呟いたあと、呆気なく砕け散ったという模造品と共にシカマルの夢は途切れた。

次に目が覚めたとき、シカマルは真っ白な世界を見た。
天国か、もしくは地獄にでも落ちたのかと疑ったが直ぐに視界の端に映る姿を見てどちらも間違いだと知る。夢へと落ちている間は不思議と疑問を持たなかったのだが現実世界に戻ってくるとじわじわと自身が何故あのような夢を見ていたか思い出す。事務員の中でも犬猿の仲の二人には珍しく任務が入り、それを遂行中に油断したシカマルが敵の幻術に呑まれたのだ。

(迂闊だった…あんなところでこいつが、あーくそっ…)

それを思い出してシカマルは舌打ちしかけたが咄嗟に唇を噛んでやめた。動かない身体の隣で寝心地悪そうに伏せっている女は先ほど自分に眩いばかりの笑顔を見せていた。現実はそうあまくないし、夢物語のように自身が思ったとおりには事は運ばない。というのにシカマルの足元に身体をあずけている女はすやすやと夢心地だ。このまま夢のように、と刹那考えたが直ぐに打ち消される。そんなことはまずない。シカマルの気配を察してか、身動ぎしだしたが目を開け、開口一番何を云うのか。明日の天気予報をあてるよりも簡単だ、とシカマルは無意識に上がる口角を女に見られないよう、布団で隠した。

中空回廊からの展望

2012/09/22_repair.2013/05/24|Happy Birthday!|title by BALDWIN