鉱石の呼吸
石のような男がいる、と巷の噂になっていた頃、私の隣にはどうしようもない男が居た。度々、浮気をしては、呆れて口もきけないこちらに「出来心」という言葉と、愛情を逆手にとった免罪符の効力を踏まえたうえでの行動に、すっかり勢力を使い果たしていた。
何もかもがどうでもよくなっていた私は、そのどうでもいい噂を真摯に考えてみたりする。強固な、という意味での比喩なのか、それとも言葉通りの、石のようながたいの良さ、石のような顔、それともそれとも、と考えていたら不意を突かれて、頭に軽い衝撃が走った。忍が任務の為に待機をする場において、子どもじみたことをする人間をあまり知らない。
「イタッ…」
「これくらい痛いわけないだろ」
呆れ口調に続いて、やけに落ち着きのある声色で、途端に誰がしてやったのかわかる。むすり、と不機嫌を装って頭をあげると、ヤマトがこちらを見下ろしていた。もとよりの高低差があるのに、しゃがんでいるが為に一層相手が大きく見える。彼の右手にはちゃっかり、丸められた紙が握られていて、これで攻撃されたことは想像に難くない。
「太鼓か何かと勘違いしているの?莫迦?」
睨みを効かせながら批難の声をあげると、ヘッドギアの真ん中で埋まっている男は、表情の乏しさに拍車をかける。恐怖心を引き出す女顔負けの大きな黒い瞳は、微動だにせず、そこから感情の一切を排除しているように思えるが、彼はそういう人だ。ヤマトは、安い挑発に痛手を被ることはなく、黒目は緩やかに細められる。
「莫迦は君の方だと思うけど。何が悲しくて自傷めいたことを続けているのさ」
ヤマトは態とらしく溜息を吐いて、丸めた書類を自分の肩に持っていく。職務に忠実な彼にしては珍しい光景ではある、と見つめていると「まぬけな顔が君らしいね」と余計な口を叩かれる。ヤマトの云う、自傷めいたことは云わずもがな知れ渡ってしまっていて、無駄に頭を働かせなくとも詳らかだった。
「何のこと?」
彼の意味する自傷めいたこと、を理解しながらも、気がつかない振りをして問い返すと、ヘッドギアが良く似合う男は防御性の高いそこに指先をあてて、こつん、こつん、と何度か叩く。何度か眼にしたことのあるその仕草は、密やかに「実力行使も辞さない」と云う恐怖による支配を企てるものだ、と云われていた。それを眼の前して、ついに身にも降りかかるのか、と動向を見守っているとヤマトはそこから指先を離す。だらりと力なく落ちた腕の先は、何も攻撃性を孕んでいなかった。床を這っている私の背中を尊大ながらに、見下ろしながらヤマトは呟く。
「君がせいぜい化けられるのは、ミミズとかそういう類じゃないのかな」
「黙ってよ、オジサン」
「それを云ってしまうと、自動的に君もオバサンの仲間入りだけれど、いいの?」
かちりと噛み合う、上も下もない年齢差を思い出し、辟易として、この男相手に突っかかるのではなかった、と早くも後悔する。ヤマトから意地の悪さが見えつつ、反論を待つ態勢をとる素振りをするが、私からの攻撃がないことは、苦虫を噛み潰したような顔を見れば理解している筈。それを態々、待ちの姿勢をとるのは、彼の加虐性だと思っている。ヤマトは気分の高揚をはかっているようで、続きを促すような瞳を向け、顎を隠す布にシワが寄る。暇潰しに付き合わされているようで、納得がいかず、憶測の域をでないのは、彼が読めない男だからだ。ぎゅっと眉に力を入れて、怒気を含ませた処で、彼に効果をもたらしたかというと、残念なことに無意味であると断言できた。
「煩いなァ。尊敬する先輩に遊んでもらってよ、私は忙しいの」
態とらしく、余所を向くと頃合い悪く、だらしのない笑いを浮かべた男が通り過ぎた。最悪だ、と喉元で悪態をついた筈が、ヤマトと云う男は容易く読み取ってしまう。
「ヘェ、窓に張り付くのが忙しいのなら、僕はチョー多忙だね」
滅多なことでは崩された言葉を吐かない男だと知っていたから、憮然とするとヤマトは肩を竦めて、「子ども達の言葉がうつってしまったみたいだ」と子どもさながら、唇を尖らせて云った。羞恥心を微かに掠めたようで、してやったり、な気分もミミズのようだと形容されてしまったのが尾を引いて、あまり嬉しいものではない。確か最近、彼の周りには金髪の男の子だったり、サクラ色の可愛い女の子、かと思うとやや顔色の優れない男の子がちょろちょろとしていた、と思い出す。
ついさっき、窓の外で一際目立つ金色を見かけたから、任務帰りなのかもしれない。忍で金髪とは、格好の餌食であるのに、と脱線しかけた思いは、足元から離れない男に奪われる。「早く尊敬する先輩のところに行ったら?」と皮肉混じりに発言すると、ヤマトは戯れ、だと云わんばかりの表情でにい、と笑った。
「残念なことにその先輩は遠征中でね」
揺れることのない黒目が細められて、唇は嘯きを平然と吐くような緩やかさでいて、どこまでも波風を立てないこの男が苦手だ。それでいて、私の思いとは裏腹に、ヤマトは私の近くにやってきては、「やあ」と某はたけなんとか先輩そっくりに腕をあげる。愛想の悪さは木の葉一、と云っても過言でもない男が、だ。
「残念なのは私?それともそっち?」
苛立ちを隠せない私は、棘をたっぷりと含ませて、散々どこか行けばいいのに、とやさぐれた気分だったのに、発言したことを後悔した。搦め手を取られるのはやぶさかで、奮い起つのは図星をつかれたから、というのは子どもでも分かることだ。それを大人の、しかも裏で暗躍している男に堂々と感情を露わにしてしまっては、弱点をついてくれ、と切望しているようなものだ。
「残念なのはの方だよ」
ヤマトは一旦床に近い私から、窓辺に眼を向かわせて、また視線を降らせては、溜めた息を長いこと吐く。全てを悟ったような、確信をついた言葉は何一つ口にせず、遠回しな態度で私を煽る。まるで、床を這っている理由を見つけたような、確信を得た瞳は相変わらず動揺もなく、ただ平坦でいながら、様々なことを含ませている。
「私が?」
「そうだよ」
「なんで私が残念がらないといけないの?」
待機所に足を運ぶつもりだった、だらしのない笑いを唇に含ませた男は、中にいる私とこの男の様子が気になるのか、また通り過ぎていく。あの熊、覚えていろ、と心中で悪たれて、ヤマトを見上げると、丸められた書類らしきものが広がりをみせた。
広がったことで、それが彼の行った任務の報告書であることや、心情を垣間見ることを赦されたような気がして、不覚にも胸は熱くなった。ヤマトは丸めた痕の反対を器用に丸め返した。まるで、彼の手中に誘われていくような、長い指先が紙を絡めあげる。
「いつまで彼の戯れに付き合ってあげるの?」
抵抗虚しくも、ほぼ元の位置に戻された書類を眺めながら、瞳は勝手に睫毛で覆い隠した。散々もがき、苦心する私をいとも簡単に「戯れ」と称した男は、丸めた書類と共にして指先を鼻先に向ける。ある一定の範囲からこちら側には決して歩み寄ろうとしない男が、自らの掟を破る姿に思い出す。寄る誘惑に対して、強靭な心で払いのける「石のような男」という、全貌をなぞられた言葉。
「まさかね」
影が薄いと酔いの席で散々嘆いていたくせに、まさか、そんな。向けられた指先の無礼さに、顔を顰めながら堂々巡りするのは、感情が行方知らずの黒目。窓の外で賑わいを見せていた男女の会話が薄れて、ただ一点に集中される意識を、目の前の男は満足げにして、腕を下ろした。それが狙いだったと云わんばかりに、唇を広げて、感情を露わにさせた男を凝視する。
「莫迦だね。僕だったら君を大切にするのに」
傾斜を転がるような自然さで、ヤマトは笑うと床に這いつくばっている私の身体に助けの手を差し出した。それを受け取っていいものか、逡巡する私は、差し迫った決断の重さに視線を落とす。ヤマトのくつくつと、噛み殺した笑いが旋毛に落とされて、それを聞いていると伸ばされた綺麗とは云い難い、忍らしく男らしい指先を握りしめたくなった。