あの人は私にとってかけがえのない存在で、狂おしいと思える程大好きだった。十過ぎたばかりの子供が感じるものではないのだろうけれど、その感情は狂おしいという言葉が良く似合うと思った。けれど彼は私の好きには本気では受け止めてくれず綺麗にかわしてしまうのが得意で私はいつもそれが憎らしくて悔しくてどうしようもなくて。子供の戯言だと云うかのように頭を撫でて嬉しいよ、と返してくれるだけだった彼に五つ下の要の云う言葉には笑顔で楽しみだなあと返す彼がたまに憎らしくてそう云ってもらえる要が嫌いになりそうでそんな自分が一番厭な感情を持っていることに気付くと自分でも無意識のうちに彼を避けるようになる。とぐろを巻く感情に飲み込まれてしまうのが恐ろしくて、好きで仕方ない彼に対してそれを見せたくなかったからだ。そうなると彼との接点は全くと云ってなくなり、姿、声がすると私は逃げてしまった、終いには彼は知らない内に神楽坂家から姿を消してしまっていてどれ程の後悔をしたってしきれないだろう。私の彼に対する気持ちもそこで止まったまま十年が過ぎた。

01

神楽坂要の護衛の一人として青領舘高校の教論となって、綾乃さんとは少し遅れて入ったのはいいが丁度空き埋まってしまったらしく日本史の補佐としてつくことになった。補佐の方が仕事が少なくて学園内を調査できる時間が作れるかもしれないと学園の案内をしてくれている教員の言葉もそこそこ聴きながら感じる。 彼の話からすると私が補佐としてつく先生はいつも社会科準備室にこもっていてあまり評判のよろしくないと苦虫をつぶした様な表情を作る様を見ながらそうなんですか、と声を落して隣に立つ先生に便乗したかのように振る舞うと彼もそうなんです、と聞きもしないことを舌にのせて云い始めた。話し振りからするとどうやら余程教員には人気ないらしく普段のやる気のなさ、が教師たちに人気がない大きな要因だろう。だからその人に補佐をつけるのだろうかと思ったが、別に授業に対しての不満を口に出していないのを感じて不思議に思う。廊下を歩く速度が少しずつ遅くなっていることを気にしつつ、一向に止まない言葉の嵐に態とらしく声を出して見せると相手の言葉はぴたりと止んだのをは満足そうに微笑んだ。

「それで、社会科準備室はどこなんでしょう」

「あ、ああ。そうでした。社会科準備室はこの階段を上がって一番手前の部屋がそうです」

「ありがとうございます」

一テンポ遅れて付いていきましょうかという言葉を丁寧に断わりを入れて階段をいそいそと駆けあがると直ぐに彼は見えなくなりほっとする。これ以上くだらない話を聴いているよりも自分の目でその彼を確かめた方が早い。私怨が入っている人の言葉はどうにも誇張されていたりするものだからその本当の彼を知ることが出来ない、自分の身体でその人を感じた方が時間的にも有利だ。幾分か安心した胸がすとんと落ちると作っていた学校用の表情が壊れかけていつもの自分に戻ってしまいそうになり気を締める。よく磨いてある廊下では運動靴の底と床が擦れる度に可愛らしい音が鳴り気分が少しだけ浮上した気がして自然と笑みが零れた。

(ええと、ここよね、)

階段を一階分上がり彼が云っていた一番手前の部屋まで歩みを進めるとその上の方にプレートがぶら下がっており社会科準備室と無機質なフォントで書かれているのを目に入れる。潜入捜査みたいなのは何回かあるけれども学校は初めてで少しだけ胸が鳴るが仕事だと云うことを瞬時に思い出し眉を寄せた。それを抑えるために深く二度深呼吸して扉に手をかけると意外にもその扉は重くて締めていた気が少し緩んでしまったのは秘密だ。

「失礼、します」

扉を開けるのと同時に低い心地のよい声が耳に入る。 聞き覚えのある声に不覚にも驚いて二三度胸が撥ねたが奥の椅子に座って机に向かっている相手の姿を見るとそのはねは余計に酷くなった。

姿はだいぶ違えど彼だとわかる、十年前に神楽坂家の先代当主の弟子として出入りしていて要が一番に懐いていた人。そして私の初恋であり今現在も好きで仕方なかった人だ。いきなりの再会に頭がどうにかなりそうで心臓の脈が正常でないことも混雑している頭では気付かない。仕事だと気を引き締めたのも意味がなく、思い切り間抜けな顔を相手に晒していることに気づくには数秒の間が必要だった。そんな私に相手は気付いていないのかそんなそぶりは一切ないことに私はこれ以上ないという程動揺してしまって、十年という月日が経ったにせよ忘れられられているということに私は酷い衝撃をうけた。どうかしましたか、と聴いてくる彼の声色で我に返るとどくどくと血液が活性化しているのと高鳴る心をどうにかしてなるべく動揺を隠した笑顔で手を差し出して相手に向いた。

「初めまして、この高校に赴任してきましたと申します。日本史教科の補佐として受け持つことになりました、宜しくお願いします」

「ああ、そういえばそんなこと今朝云ってましたっけ。私は安部忠義と云います、好きに呼んでもらって構いませんよ先生」

にこりと、彼は椅子から腰を上げ笑い顔を作りながら手を握り返した。それだけなのに私の動揺を隠した笑顔はすぐに剥がれてしまう。それは彼の手が、昔握った時のものとは比べ物にならないくらいに逞しくなっていて男らしくごつりと骨張った指になっていたからで、前にはなかった指に当たる肉刺が会わなかった空白を意味していたからで、私は彼の返事を返さぬまま呆けてしまう。手を離した途端手汗が噴き出すのを感じながら崩れそうになっている笑顔を彼にもう一度向ける。

「安部…先生ですか、まだ拙いと思いますのでご指導の程宜しくお願いします」

「いやいや、私もまだ赴任してきたばかりなので先生の役に立てないかもしれません」

特に、と続けた彼の言葉に覆いかぶさるように学校の鐘が忙しく放送スピーカーから流れた途端静かだった廊下から生徒たちの声が流れてくる。タイミングの悪いと思ったが彼はさして気にも留めず笑顔で次受け持ちの授業があるんですよ、と云った。

「すみません、お邪魔ですよね。今日はもう挨拶だけ、なので」

「そうですか。ではまた明日授業で会いましょう」

「あ、はい。では失礼します」

笑顔で見送って返事を返した彼が一瞬だけ見せた鋭い瞳に目を奪われて思考を持っていかれそうになってぐっと押しとどめた。その鋭さも一瞬で直ぐに緩んで弓を引くけれど瞬間に感じたそれに対して直ぐに緊張は解けずとても変な笑顔になっていたのだろう、彼は態とらしく大丈夫ですかなんて聞いてくるものだから対抗して返事をして踵を返し早く、と焦る心のままに社会科準備室を出た。可笑しそうにする彼の笑い声を背景にして。社会科準備室の存在する階から一刻も早く抜け出したくて生徒達が入り混じる廊下を慌てて駆け降りた。運動靴がきゅ、きゅ、と鳴る度に彼があの時言葉を最初から私に聞かせるつもりがなかったのだと気付く、本当は私が誰か覚えているのだろうかという考えが頭を過った丁度またタイミング悪く鐘が鳴りその考えは遠くへ行ってしまった。どくどくと相変わらず血液は煩く身体中駆け巡っているし頭は彼の意味深の笑顔でいっぱいいっぱいだった。

もう、波は消えない

(20091201)(×)(止まったままだった感情が動き出してしまった)