視線を上げれば要が大きな目を藍色に染めながら覗き込んできた。平気と返事を返せば可愛らしい笑い方をするから要が憎らしい筈なのにそんな彼女を見ると酷く安心してしまう私が居た。先週の出来事はまるでなかったかのように彼は社会化準備室の扉を開くなり証明してくれた。振り返ってはおはようと笑った顔に私は拍子抜けしてしまったものだ。まるでなかった、と云うのは間違えかもしれない。呼び名が先生からへと変わっていた。態度も最初の堅苦しいと思える程の言葉は全くなくなり少しばかり乱暴なものへと変わった。
呆気に取られている私に彼はどうしたんだ、と意地悪い笑みを浮かべるものだからつい教師と退魔師としての自分を忘れてしまいむきになり云い返してしまうのが常となっていた。そうすれば彼は驚く程、優しく微笑むものだからうっかりしてしまうのだ。それが駄目だと云う事に気付く事昨日から疲れ果てた身体を休める為保健室へと足を向けた。要は定期的に綾乃さんへの報告をしているのか保健室には彼女が顔には相応しくない服装をして座っていた。男子校だから仕方ないにしてもこれはね、と要に同情しながらお茶を頂いた。
「思ったよりも手こずりそうね」
「ええ、気配も全くと云って善いほど感じないわ。ね、要」
「うん…」
はあ、と三人で溜息をつきながら温かいお茶に喉を潤す。
この学校に着てから二週間、気配さえも感じない。怪しいと云ったら先週見たイタチだけなのだが、それを話に出すには必要性がない気がして黙っていた、彼の事も。あの日に口止めをされた。子供ではない私はあまり驚かなかった、と大人びた事を云ってみるけれども本心は驚愕に頭は真っ白になったし、身体の熱も恐ろしい程続いた。何も思っていない人とではない、ずっと思い焦がれていた人からだったのだからああなったのは不思議ではないだろう。
口付けを一方的に交わされた後、彼は要には云うなと念を押した。私は何故要にはと云う疑問を口にする程の勇気などなく白い塗料で塗りつぶされた頭ではただ頷くしかなかった。社会化準備室の扉をそろりと遠慮がちに開けば中からばれてるぞと云う鋭い言葉が返ってきて、それ以上の足掻きは止めた。彼は机に向かって何かをしているのだけれど、それを聞くのは憚られた。
(あの時の、傷あるのかしら)
ワイシャツ一枚の向こう側を覗いてみたくて、手を伸ばしそうになったのを慌てて引っ込める。直ぐに気が付いた彼がまた椅子を鳴らして振り返ったからだ。その表情は迷惑そうでもあり、触れて欲しくなさそうでもあった。
「いつまでそこにいるつもりだ、?」
眉を寄せて訝しげた。「…直ぐ帰ります」彼と云う存在が、安部忠義と云う人物が分からなくなりそうで震えた。朝持ち込んだものを手に踵を返すとあの椅子の音が聞えなかったにも関わらず開こうとした扉には逞しい腕が塞がり、思わず振り返ってしまえば彼の思惑通りになる。ごつりとした掌は知らず知らずのうちに後頭部を固定して、扉に身体が張り付いても痛みは感じなかった。少し乾燥した唇が押し付けられ生暖かい舌が上唇を舐めた。憎悪とは違う身震いに彼はくつくつと可笑しそうに笑いながら押し付ける力が強くなり扉ががたがたと笑う。
「今日は、要と学校に残るな。判ったな」
念を押すように舌を吸い取られ厭な音がする。やはりこの人は要の事が心配で仕方ないのだと分かる。微かに感じる善くない気を身体に感じながら否定させない力強さがある言葉に反論する事が出来なかった。この人は私の気持ちを知っているからこそこんな手を使って口止めをするのだと知りつつも、逆らえない自分が悔しいと廊下に出た私は秘かに落ちる涙を踏みつけた。
とは云え、退魔師である自分が退治しないでは名折れだと要だけは約束に誓い家に戻るよう説得をした。何度目か判らない夜の学校は少しばかり慣れはしたがやはり怖いものは怖いのだ。気配を探りながら階段を上がる、夕方感じた気配は夜になるにつれて強くなり、力をつける。気配も薄い絹のようなものから丈夫な布へと変わる。走り易い運動靴の音だけが世界を包んでいるかのようだと思いながらも近づく魔の気配に札を構えた。
「隠れたって無駄よ、」
ひゅんと札を投げればそれらは何かによって一瞬の内に炭となる。強くなる力に畏怖を感じながら札を手に取り投げれば人ならぬ叫び声を上げ煙となって消え、何度か繰り返すうちに力が足りなくなり肩で息をしながら精気を奪おうと群がってくる者たちに札を投げる。昨日までは全く感じなかった魔の者達はそれを覆す程の多さだ。札を使えば使う程増えているようにも見え、冷静に分析する反面身体がいつ竦んでしまっても可笑しくないと感じていた。
背中が焼けるように痛い。と感じた頃には背後を取られており、首筋に下劣な声が耳に届く。身体が金縛りにあい手にしていた数枚の札はゆっくりと床に落ちた。(若い娘のものは久しぶりだ)ぞわりと、する。このまま死んでしまうのだろうかと力が抜けていく身体を抑える事が出来ずにいた。
「急急如律令!」
強力な魔力が背中を刺激する。抜けていく力をどうにも出来ず重力に任せると衝撃は無く変わりに響いたのは廊下いっぱいの怒声だった。汗を滲ませた額を拭われながら、視線を上げるとやはり彼でその顔は直視するのも厭になる程のものだ。困惑する中彼はもう一度理解していない私に向かって吠えた。
「莫迦もんが!あれ程云っただろうが、!」
「ご、めんなさい…」
滲む、こんなにも弱いのだと初めて知らされた。こんなにもこの人と私の差は歴然なのだと感じさせられる。子供のように泣きじゃくりながら謝れば、莫迦やろう、と繰り返された。二十歳にもなってこんな事で涙を見せるなんて情けないと涙を拭おうと腕を上げようとしても上手く上がらない、さっきの反動で身体の自由が利かなくなっていた。ただ、力を入れれば情けなく震えるだけで重力に逆らった行動は全く出来ない。
「身体が動かないんだろう、その様子じゃあ」
「…すみません、」
「謝るなら最初から云う事を聞いておけ、莫迦もん」
莫迦もん、と云う処で身体が宙に浮く感覚を覚える。批難の声を上げようとする私に一喝すると彼は何の重さもないとでも云うかのように軽々と持ち上げた。軽い筈ではないのにと恥ずかしくなりながら顔を逸らすと左耳近くからそんな私をからかうような笑いが聞える。どうしてこうも考えている事が容易く分かってしまうのだろうと悔しさが滲んだ、動かない身体はあっという間に車に運ばれ、その頃にはやっと腕を持ち上げるくらいは出来るようになった。
「明日も動けんだろう、電話は自分でするんだな」
何で、と尋ねる前にエンジンがけたたましい音を立て車が動き出した為掻き消された。隣を盗み見れば彼は一層険しい表情を見せていた、眉間の皺が生まれた当初からあったかのような深さに何も紡ぐ事が出来ず、目的地に着くまで車内には沈黙が当たり前のようだった。疲労により、自分でも知らない内に眠りについてしまい目が覚めた頃には知らない部屋に居た事に声にならない悲鳴を上げた。
(20100806)(×)(同情であっても私はそれを拒む事が出来ないでいる)