忠義兄様、と呼べばなんだい、と緩やかに聞いてくる貴方が好きだった。私はずっと貴方の事が好きで仕方なかったと云えば困ったように笑うだけで、その子供に対するはぐらかしが私はとても嫌いだった。貴方が云うならばどんな言葉にも私はあの子の名前を出せば貴方の視線は幾分か緩くなる。忠義兄様は要が好きなのと聞いてしまった事がある、彼は少し驚いて子供の好奇心だと思ったのか皆同じくらい好きで大切な人だよと笑った。煩わしそうに眉を顰める事もいとおしげで酷く哀しくなったのを覚えている。

04

忠義兄様は縁側に座り、隣には要が窮屈そうに着物を身に纏いながら座っていた。足をぶらりぶらりとさせ、その頬に空気を含ませて機嫌を損なっている事を表した。親に内緒で公園へ出向き砂遊びをして高価な着物を泥だらけにしたのが原因だった、お淑やかにしなさいと口をすっぱくして云われた処で要はそれを守るどころか破る事の方が圧倒的に多く、守った約束など片手を使えば事足りてしまう程だ。忠義兄様はそんな要に優しく笑いながら頭を撫でた。

「兄様、また子供扱いする」

「あはは、君はまだ子供だろう?」

「そんな事ないもん!」

頬の膨らみは更に度を増して大きくなる。それを忠義兄様は笑いながら謝った。
忠義兄様、と声をかければ忠義兄様は顔を上げ此方を見やりああ、と目を細め唇の端をきゅ、と上げる。その表情が大好きでそれを見る度に胸がきゅうと締め付けられる感覚がした。着物の所為だと最初は思っていたが忠義兄様以外の異性のそれを見ても着物の締め付けはなかった。それを母に尋ねた時、母は嬉しそうに微笑んで善かったと云った。私は何の事かその時は分からなかったが何度も忠義兄様と話をするうちにそれが家族や友達と感じる好きとは違う事を知る。要が兄様、と呼ぶものだから同じように兄様では芸がないと思い冒頭に忠義、と入れて呼ぶようになった。いつも何ともないように装っているけれどその名前を呼ぶ度に胸は高鳴っては締め付けられた。

と散歩に行きませんか、?」

隣には要がにこにこと愉しそうに足を揺らしている、そこに視線を向けて忠義兄様に戻ると兄様は大好きなそれのままいいよ、と云ってくれた。要が私も、ときらりとした期待の眼差しを向けてきたものだから否定出来る事なく、口篭ったのを忠義兄様は知る事なく三人でと云い庭先に常備してあるつっかけを履き、要を呼んだ。私は酷くがっかりして、下駄を擦り合わせた。忠義兄様と二人で行きたかったのにと要とは違う意思表示に彼女と自分の差を見せ付けられた気がして哀しくなった。要、と襖で区切られた部屋から聞えた声に要は身体を大げさなくらいに跳ねさせると、部屋から出てきたおじい様に飛びつきお帰りなさい!と云った、それにつられて忠義兄様も、庭先に居る私も同じようにして声をかけた。襖の向こうに消えていくおじい様と要を見送った後、忠義兄様は振り向いて私を見る。

「散歩は今度にしようか」


日本史の授業を掃除道具入れの前に立ちそれを背にしながら聞いた。
教え方は昔から上手いとは思っていたけれども、これほどまでに解り易く教えられるのならいっその事教師になればいいのにと思うほど彼の授業は面白かった。が、それは同じ教師として見た評価であって一部の生徒は授業が始まったと五分もしないうちに机になだれ込んでいた。同じ教師としての立場であってもあまり受けが善くないのは不思議で仕方ない。退魔師としての仕事を兼ねている為、変わった行動がある為、彼の事を過小評価している人たちの噂話を思い出し、背中に力を入れると掃除道具入れの角が当たってとても痛かった。

「今日は此処まで!明日小テストをやるから覚えておけよ、特に兵頭!」

黒板の前で手に付いたチョークの粉を両手を擦り合わせて落としながら彼は居眠り常習犯の兵頭十馬に向かって叫んだ。それに驚いて椅子を蹴り飛ばし慌てて返事をした彼にクラス中はどっと沸いた。

補佐として就いたものの、補佐なんて要らないのではと思う出来に何とも云えず、ボールペンをかちかちと鳴らした。要が振り返り、近づいてくるのを見て微かに首を振る。彼を盗み見れば彼も陰険さが一層濃くなった気がしたのと、安全さを考慮してだった。保健室、と唇だけ動かして意思表示すると要も微かに頷いた後やってきた兵頭十馬に羽交い絞めにされた。彼はそれを見る間もなく、教室から出て行ってしまい慌ててその背中を追いかけた。

先生」

「はい」

「少しいいかしら?」

「ええ、」

職員室へ入ると綾乃さんがコーヒーを片手にやってきた。
ああ、そういえば倒れて彼の部屋で泊まったあの日以来綾乃さんに会っていない事を思い出し、同じようにその日の出来事までも頭を過ぎり思わず赤面しそうになり引き攣る頬を精一杯押さえつけ立ち上がった。場所は聞くまでもなく保健室で中に入ると要が丸椅子に座り、少し怯えている様子だ。疑問符を浮かべながら綾乃さんを見やればその美しい顔に静かな怒りが含まれており、ああこれはと自分の身を案じた。私と対になって綾乃さんと座ればそこから少し離れた場所で要が心配そうに動向を見守っている。何処でばれたのだろうと考えあぐねた矢先に微笑みながら綾乃さんが口を開いた。

「ちゃんと説明してちょうだい」

声に笑いはない。どう答えようと唇を窄めると彼女はふうと溜息を吐いた、仕方ないわねと声には出さないもののそう云っていた。それは今回だけだというけん制も含まれてる事は必須だ。曖昧な笑みを浮かべると綺麗に微笑み返されるものだから気をつけようと云う気持ちを増幅させてくれる、綾乃さんがお目付け役なのはこういう能力に長けているからだろう、勿論情報収集をする草としての役割も彼に助けられて命を取り留めた私なんかよりも十分すぎる能力を持っている。話の終わりを示す、それでと要に向き直り私も同じように要に視線を向けると要は肩を強張らせた。まだ綾乃さんの笑顔の名残に怯えているのだと同情した。

「ええと、さんが居なかった日の夜、強力な気配を感じました」

居なかった日、と要が紡ぐと綾乃さんが此方をちらりと一瞥した。
強力な気配はきっと彼のものだろうと分かってはいたが何も口にしなかった。多分魔を払っていた処なのだろう。それで、と言葉を続ける要に耳を傾ける。表情はいつになく真剣そのものだ。

「安部先生らしき人を見かけたんです」

「安部先生、?」

「私が補佐をしている教科の先生兼、要の担任よ」

ああ、と納得した綾乃さんを見た要は安部先生が怪しいと思うんです、と眉に力を入れた。怪しさも力も十分あるけれども彼は退魔師なのだからあり得はしない。何か秘密があるのではと訝しがった、確かに秘密と云えば秘密だけれどもと一人で呟く。綾乃さんは早合点するのは善くないと要を嗜めつつ、その線を入れて調べてみると云った。私は二人には何も云う事なくそうね、と相槌を打つだけだった。いつものように保健室でお茶を啜りながら三人で唸ってはいたけれども私だけは別の事を考えている、彼が何故要に見つかったかという事だけが頭の中を何度も何度も廻り続けた。何故彼と云う実力者がこうも簡単に要に見つかってしまったのだろう、彼くらいの実力ならば姿封じの力くらい使えたって何ら不思議な処などないと云うのに。厭な予感がする、それは私だけの厭な予感だ。当たって欲しくないと二人に気付かれないよう奥歯をぐっと噛み締めた。

、」

低い音、名前を呼ばれる。はい、と椅子を回せば彼と視線が合い胸に緊張が走る。早くこの状況に慣れなくてはと思いながらもこれに関しては順応性は機能してくれなかった。彼は符術に使う紙を切りそろえながら眉をあからさまに寄せた。何かしてしまった覚えがない此方としてはその一つの反応でさえ眉を顰める、が彼がするとなるとまた違った意味を持つものだから怖くて仕方ない。

「神楽坂、に何か云った、か?」

質問、と云うよりは略命令口調のようなものが漂っており、慎重に言葉を選ぼうとしても何て云えばいいのか言葉に詰まる。神楽坂、だなんて余所余所しく呼ぶ時の彼は嫌い、けれども名前を呼ぶ彼を見るのも聞くのも耐えがたいという我が儘が私の中に存在しているけれども決してそれを口にする事はなかった。

「いいえ、彼女には何も云ってません」

表情を変えず、観察するかのような鋭い視線に胸が痛む。
彼は私を信用していないのだ、と判ってしまうからだ。どれくらいの時間が経ったのだろうとひりひりする爪先を感じながら思った。彼はきい、と椅子を元に戻すとそのまま何も云う事なくまた鋏が紙を裁断する音だけになった。そうまでしてあの子を守りたいのだろうか、と渦を巻いた後直ぐに自己嫌悪に苛まれて眉を寄せると神経が繋がっているかのように爪先も一気にびりびりした。こんなにも彼の事が好きで仕方ないというのに彼は私を見る事等ないのだと、再確認させられた気がした。

ただ想うだけはこんなにも難しい

(20100806)(×)(言葉にすれば、貴方はきっと私を拒むのでしょう)