安部先生がどんな人なのか知りたい、と要が私に云った。綾乃さんが彼に接触をし、彼は秘密を守る為か綾乃さんに軽い呪術をかけた処を要に目撃されてしまっていた。私は然程驚いた様子もなくそうね、何者か未だ判らないものねと要の言葉に同調するように云ったけれども心の中はついに要が彼の方へ近づいていくのが分かり心が軋んだ。
放送で鐘の音が鳴ると生徒一同終わったと騒ぎ始めた。
彼は白い粉を空気に散布させながら要が嬉しそうに彼に近づいていくのを見た。彼は酷くうっとおしそうに眉を寄せ、神楽坂と呼んだが要はそれに動じる事もなく笑顔を向けた。彼は満更でもない様子で教室を出て行く、それを要が追いかけていくのを見送り、いつものように彼の背中を追いかけていた私はそんな要を見て教室を出る気にはなれなかった。
「先生ー、此処善くわからないので教えてください」
「はいはい、ちょっと待ってね」
手にしていたノートを閉じ、呼んだ生徒に向かう。判らないと云った処を教えている間も考えが浮かぶのはずっとあの人と要の行方だけだった。廊下をとぼとぼと歩いた処で社会化準備室には確実と云っていい程あの人は居るだろうと判っている癖にどうにか時間を延ばそうと足掻く自分が酷く滑稽だと思いながらも早く歩く気力はなく緩やかに廊下を歩いた。社会化準備室の前の廊下は夕方になると日が入り橙色がとても綺麗だ、目を細めながら窓の外を眺めるとあまりの美しさに靄がかかった気持ちを一瞬だけ晴らしてくれた。
扉の前で何度か深呼吸する、きっと中に居る彼には気付かれているだろうけれどもそれを止める事が出来ないでいた。大丈夫、と自分自身を励ましドアノブに触れる前にぴりりとした痛みを伴い、思わずそこから手を離した。社会化準備室がある階は他に大勢の人が出入りするような部屋はなく酷く静かなのだ、いつもなら気配で察してくれる彼の声が扉越しに聞える。息が止まった。
「私、絶対諦めませんから!」
「お遊びが過ぎると痛い目見るぞ、神楽坂」
「それでも私は…っ」
何かを打ちつけた音がした後遠くから聞えていた声がぐっと近くなる、要の声と彼の声が隣り合わせで聞え胸がぎくりとし、血管と云う血管の中の血液が一気に覚醒化したように熱くなる。少しの沈黙に耐えられなくなった私は来た道を、物凄い速さで戻る、倍速で逆再生をしたかと云うくらいだ、気が付いたら要のクラス教室の前まで戻ってきていた。肩が何度も上がり、顔は高熱でも出したのかと云うくらいに熱かった。走りすぎた反動で涙が目尻に溜まり溢れそうになったが背後で駆けてくる音に涙は直ぐに引っ込んだ。
「…要…?」
「……っさん…」
要は泣いていた、私は狼狽えた。
あの人はきっと要を守る為に彼女を傷つけるような事を口にしたのだろう、それを聞いて要は涙を見せた。昔から滅多に涙は見せない要がだ。私は要を泣かせたあの人を憤慨しようと出来る限りの考えを頭の中で浮かべてみようとすればする程、優しさばかりが突き刺さりそれ以外何も考えられなくなる。要は、そんな彼の優しさにもう直ぐ気付く、否もう何処かで気付いているからこうして涙を流しているのかもしれない。苦しい、苦しい、助けてと叫びたい気持ちを押し殺してぽとりぽとりと感情を落とす要を抱きしめた。
「大丈夫よ、泣きたい時は思い切り泣きなさい」
そう云いつつも泣きたいのは私も一緒だった。心はあの人と会ってから常に悲鳴を上げて、云えない言葉を云おうとする。それを阻止する私を憤慨するかのように針が心臓目掛けて飛んでくるのだ。要は肩に涙を流し、私は心で涙を流した。
「お話があります」
「何だ、」
要を綾乃さんに預け、私はあれ程憂鬱になっていた社会化準備室への道のりを自分ではないような感覚で突き進む。廊下の景色を一旦止まって眺める事も、扉の前で深く深呼吸する事もしなかった。それでも相変わらず心臓だけは忙しなくどくどくと云う。扉の先には彼は座っておらず私を視界に入れるとあからさまに厭な顔をした。いつもは含まれていない直接的な攻撃に嗚呼、この人は要を傷つけてしまった事に対して深く傷ついているのだと一度でも目深を下ろせば滴が落ちてしまいそうだった。
「要を想っているのは分かっています、だけれど要を傷つけるような事は云わないで。あの子は知らず知らずのうちに、た…忠義兄、様の事を想っているんだと思います、だからあんなに傷ついて…っ」
「ああ、だったらどうだって云うんだ?」
ひゅ、と喉から音が出る。彼の腕が不意に伸びてきて狭いこの部屋では直ぐに壁に背中が当たり行き止まり、その腕を払いのける事をしようとすれば手の内に持ってかれるだけ、抵抗しなければ善かったと後悔する。近づいてくる彼の顔を極力見ないように顔を背けると笑いが聞え、唇は耳元へ寄る。傷ついているのは案外お前さんの方じゃあないのか、と確信めいた口調で云われれば思わず、喉が詰まる。くつくつと笑う意地の悪いそれは心臓を破裂させる要素の一つだ。答えられない、彼の笑いだけが反響する。そうだ、私は傷ついている、だけれどそれを彼に曝け出すのは至難の業だ。笑いを貼り付けた唇が耳元から唇へと近づいてくるのが吐息で分かり慌てた。
「傷ついているのは要よ、兄様」
「態とだ、と云ったらどうする?」
彼の声が離れていく。ああ、口付けされなかったと安心したのか残念だったのか、私には善く分からない。
「…どう、して…!」
「お前さんには関係ない事だろう?」
「……っ、」
私は関係ない、いつも蚊帳の外なのだ。それを本人から云われた事でそれ以上何も紡げなかった。私はどんな事に対しても彼にしてみたら関係ないのだ。彼に弱みを見せたくない一身で目を閉じる事を赦さない、彼はいつものように何もかも分かっているかのような笑顔で私が崩れるのを待っているのだ。それが悔しくて、思わず口を滑らしそうになる、貴方が好きです。
(20100810)(×)(いつもあの子を見ている貴方)