「要が、そんなに好き?」
「ああ、」
「私は忠義さんの事をずっと、」
「それ以上云わないでくれ。俺は要、が」
光が一気に身体に入り込み目を覚ますとそこはいつも見ている部屋の天井だった。
私は夢を見ていたのだ、と思った時には涙が頬を伝うのを止められなくなっていた。嘘だったならああ、夢かと安心できるのだけれど、現実味を帯びているから夢かと安心できなかった。
社会化準備室に足を入れるとそこには彼は居らず変わりにいつもは着やしないような背広が古い椅子にかかっていた。今朝から直る事がない胸の痛みを誤魔化すように自身の机へ向かい荷物を置いた。椅子を引いて座ろうと思ったがどうしても視界の端にかかる焦げ茶色の背広が気になって中途半端な体勢のまま動けなくなってしまった。あの人が此処に居ればまだ善かったのに居ないとなるとどうしてもいつもよりも大胆な行動に出ようとするのが人の性なのだろうか。
大体おかしい、いつもは住み着いているんではないかと疑ってしまうくらいに此処から離れた事がないと云うのに昨日の今日で居ないなんて、と考えてしまうと途端に息苦しくなる。髪の毛を耳にかけても落ちてくる数本のそれに苛々とした。自分でも気が付かないうちに間を持たせるときにしてしまう行動に、慌てて手を引っ込めた。
「……、」
少しくらいなら、と彼の背広に手をつけた。
あまり着ない所為かそれはのりがしっかりとついており彼にしては珍しくシワ一つない。日が当たらない部屋でそれは何故かぽかぽかと暖かさを含んでいて、思わず腕の中に持っていって抱きしめていた。微かに香る彼の匂いは無遠慮そうに見えて優しさを持つ彼らしい匂い、思わず今朝の夢を思い出し不意に緩んだ涙腺から伝って涙となって背広に零れた。駄目だと思い背広を元の場所に戻すもその出来た染みが気になって戻ってきた彼に気付かれやしないだろうかとどきどきした。
けれど彼は結局受け持ちの授業がある時間まで戻ってくる事はなく、それは染みが背広に溶けて見えなくなってから二時間は経過していた。社会化教室に荒々しく入ってきた彼は私と視線を交わらせるとその機嫌は更に悪くなり、荒々しく椅子に腰掛けた。何か声をかけなければ、と思いながらも何も聞く事は出来ず静まる部屋はとても居心地の良いものではない。
「珍しい、ですね。いつもは朝からいらっしゃるのに」
「お前さんには関係ない事だ、」
「そうかもしれませんけれど…でも」
確かに私には関係ないかもしれないけれど、と今朝の夢を思い出した。あの時もこんなような事を云われてつい口を滑らしてしまったのだ。心臓が跳ねる、云いたい言葉が喉までこみ上げた。
「安部先生ー!」
「……、」
「神楽坂、か」
盛大な音を立て部屋の扉が開いた先には要が満面の笑みで現れた。私は驚き、彼は心底厭そうな顔を作っていたが私に対してとは違うその中にも好意が散らばっている。要は片手にお弁当を持ち、彼に向かってお弁当一緒に食べましょうと誰が見ても女の子そのものの笑顔を咲かせた。彼はいつも栄養補給食品を口にしているだけでまともな食事を取っていない、何度も私も口にしようと思っていたのだけれど中々云えなかった。それだと云うのに要は意図も簡単に口にした。
「こんな食生活駄目ですよ!私のお弁当半分食べますか?」
「要らん。と云うか勝手に弁当を広げるな!」
彼は強引な要を押し返す事無く結局はお弁当を広げる事を赦す。
隣で私が見ている事も忘れているのか微かに纏う空気を和らげる彼に少なからず傷ついている自分が心底厭になり、視線を逸らそうと掌に爪が食い込む。要が彼に卵焼きを差し出し、それを目の前に顔を朱くさせる彼なんて見たくなかったけれども見てしまった私はそれから脳裏にこびり付いて離れてくれなくなる。彼への予測は確信になり、私は目の前にある書類へ視線を向けるけれども内容なんて全く入ってくる訳がなかった。
厭、厭だ。彼が要の事を好きでいるのは分かっている、けれどもとてつもなく厭だった。要に嫉妬する自分も、要を好きでいる彼も、何も分からないまま彼に好意を寄せ始めている要に対しても、全てが厭だった。書類の文字がゲシュタルト崩壊して、何がなんだか分からなくなる。要の声が響く、彼の低い声が胸を締め付けて、要が私の名前を呼んでいることさえ気付くのに時間がかかった。
「どうかしたの?」
「先生もどうですか?」
そう云って彼が口をつけた筈の箸でもう一つの卵焼きを差し出して無邪気に微笑む要に頭はどうにかしそうだった。ちらりと彼に視線を向けると彼は興味なさそうに机に向かっていて此方からでは表情は伺えず、胸の軋みはいっそう強くなるばかりだ。困ったように眉を下げれば要は明るさを増して黄色いそれを差し出してくる。十代の青春真っ盛りの子供ではないのだ、間接キスくらいで何をうろたえているのだろうと唇を開こうとすれば微かに震える。要は笑顔でそれを唇へ持ってくる。
「神楽坂、兵頭と約束があったんじゃあないのか」
唇にちょん、とつくかつかないかの処で此方に背中を向けていた彼が振り向きいつもより三割り増しの眉間の皺を見せ付けながら云い放つと要は思い出したのか顔を真っ青にさせ、差し出した黄色いそれを素早くお弁当に戻した。
「すみません!先生、今度味見して下さいね!」
消えた要の姿を見送った後彼はくつくつと可笑しそうに笑い出すものだから、それが自分に向かってだと気付く。顔を朱く染め、唇をふるふると震えさせていれば彼の笑いの材料には十分過ぎたのだろう。悔しくなり書類に視線を戻すと隣の椅子が煩く音を何度も立てる。顔朱いぞ、あれくらいでそうなるなんてまだまだお子様だなと云う言葉が聞えてきたけれども振り向いて云い返す度胸もなかった私は手にしていた書類を思い切り握り締めた。これが鉛筆だったのならきっと半分に折れていただろう。紙は皺だらけになるだけでは飽き足らず、爪が食い込んだ処から穴が開き、もう少し理性が飛んでいたのなら燃やしてしまっていただろうと冷静になってきた頭の中で思いながら彼の笑い声が聞えなくなった聴覚で一度でもいいからあの人の優しい声が聞きたいと思わずにはいられなかった。
(20100811)(×)(私の哀しみをからかうのはそんなに愉しいの、)