終わりは早く、始まりは遅かった。私が知らない内に要は彼の真実を突き止め、彼と共に問題のそれを片付けてしまったのを聞いたのはその翌日だった。驚いた私と綾乃さんは笑う要にどうしていいのか分からず、兎に角最初に開口したのは綾乃さんの怒声、それから安堵感だった。そうなるともうこの学校に残る理由もなく、要は次の日には手続きを済ませもと行っていた学校へ戻った。私と綾乃さんは引継ぎの準備に取り掛かるのに一週間は学校に残る事になり、仕事を片付ける為に作業をする。社会化準備室に出向いた時には彼の荷物は綺麗さっぱり無くなっていて、こうなる事を想定していたのか彼は今日のうちに学校を去っていた。動揺を隠せない私に綾乃さんは彼について聞く事もなく、いつの間にか部屋から居なくなっていた。
私はもう彼について知る事も出来なくなってしまったのだと、絶望感が身体を支配する。渦中にいるかのように目が回り、気持ちが悪くなる。いつも彼は私に一言も告げずに、何も残さずに消えてしまう。私だけの気持ちが残ったまま、消えていくのだ。要が好きだと分かってはいても、一言くらい告げて欲しい、きっと要にはちゃんと告げているのだろう、否もしかして何も云わずにひょっこり出てきて驚かすかもしれない。兎に角彼は分からない、もやりもやりとしながら教科書、書類を手にすればそれを全て塵箱へ投げ捨ててしまいたい、今回ばかりは欲望に忠実になりそこへ投げ入れた。少しは楽になるかもと期待してみたが気持ちは晴れる処か彼が読んだ教科書の内容や行事、出来事が流れ込んできて余計に苦しくなった。どうしていつもそっとしてくれないのだろう、込み上げてくる哀しみをそのまま表に吐き出し、涙となって塵箱へと落ちた。
「……っ、あに…さまっ」
思い切り残りの書類も、全て溢れ出ている塵箱へと投げつけた。そこの周りだけ汚くなっていくのを気にも留めないように捨てていく。早く気持ちを捨てたいと云う気持ちが早足になる、兄様が好きだとずっと追いかけて、退魔師にもなった。やっと追いついたかと思えば消えていなくなってしまう。自分は彼に何か伝えただろうか、何も伝えていない事に気付いた時には後悔既に遅し、彼は目の前に居ず、後悔だけが残る。直接的に彼にぶつかってみた事なんて一度もないではないか。私はいつも彼は要が好きだと思い、自分の気持ちを伝える事もなくただ一人で苦しんで、嘆いているだけの独りよがりだ。途端に自分の莫迦さ加減に涙腺が可笑しくなり胸元まで涙が零れ落ち、大きな染みを作っていく。
だからだ、彼は私ではなく要を好きになるのだ。
何でも率直にぶつかっていく要はきっと忠義兄様の憧れ、を超越した存在になったのだろう。判った処でもう遅い。彼は居ないのだから、伝えようがないのだ。ぽたり、落ちた涙は確実に服に悲しみを吸い込ませた。
「おじい様、只今戻りました」
「うむ、ご苦労じゃった」
「いえ、要が解決してくれたお陰です」
淡々と言葉を吐き、うむ、と相槌を打ったおじい様の部屋の襖を閉めた。床に尻餅をつくととても冷たくて、冬場には少し寒いくらいだ。先週の出来事が嘘のようで、床の冷たさが先週までの出来事を鮮明にさせてくれるだけましだった。あれから要には会っていない、もとの学校が忙しいのと自分が要の学校の終わり時間にはアパートに戻っている所為だと解っている、まだ要には会いたくなかった。要に会えば引っ張られるように忠義兄様の事を思い出してしまう。思い出すだけならば今此処でもしているのだけれど何処か夢物語のようだからまだ平気だ、要か忠義兄様に会いさえしなければ。
「あら、さん」
ぺたりと床に足をつけた私を咎めるでもなく、ただ声を出した綾乃さんに視線を向ければ男子校で殆どの異性と云う異性を虜にしたあの笑顔をした。私でもどきりとしてしまうくらいなのだからよっぽどなのだろうと、頭の片隅で感じながら床から立ち上がる。綾乃さんはお茶でも飲みましょう、と隣の襖を開き中に入るよう促した。それを素直に受け入れ中に入れば忠義兄様があの日から何ら変わりのない不機嫌そうな顔で畳の上に足を寛がせていた。目を見開いて驚く私に、綾乃さんは笑顔を崩さす忠義兄様に向けると小さく舌打ちをして眉間の皺は幾分かましになった。忠義兄様何故、と頭の中でぐるぐるとしていると忠義兄様の方から口を開いた。
「…まあ、そこに座れ」
「………」
「さん、」
「…、はい」
忠義兄様の向かいに座る度胸のない私は少しずらした斜め前に座る。
背後で綾乃さんの笑顔が苦笑いに変わる音が聞えたけれども目の前に座るような事をしないと解ったのか誘い文句の通りにお茶を入れに外へ出て行ってしまった。
俯き加減で机の上に視線を彷徨わせている私に対し、忠義兄様は彼らしく、私の方へと視線を外す事はせず痛いと感じるけれど視線を交わらせる勇気なんて持ち合わせていない。何故、忠義兄様が此処にいるのだろう、と思いながらも顔を上げる事は出来ず、子供のように身体を震わせて兄様が諦めて視線を逸らしてくれるのを待った。何分、経っただろう、綾乃さんがお茶を運んでくるまで忠義兄様の視線は私から外れる事はなかった。綾乃さんは居てくれると思っていたのだけれどお茶を二人分運んできただけでそくささと襖の向こう側へ行ってしまった。手を伸ばしかけた私に綾乃さんの咎めるような笑いを向けられ、手を畳へ下ろした。そのまま力なく畳を引きずり膝へ戻すまで手の甲がひりひりした。そのお陰で少しは冷静になれ、息をする余裕もなく吐き出した。
「…あ、安部せんせ…」
「俺はもう先生じゃない、」
「た、忠義兄様は、ど…どうして此処へ、?」
綾乃さんの脅しもなくなった所為か、再度眉間の皺が険しくなる。
竦みそうになる身体を拳を握り締める事によって阻む。兄様は何も紡がず、そこで初めて私から視線を逸らした、と思い今度は私が視線を向けた。けれど忠義兄様は視線を逸らしていたわけではなく、ばちりと視線が交わる。詰まる息に、彼は可笑しそうにそこでやっといつもの皮肉る笑顔を向けた。
「お前さんに、会いに来たと云ったら?」
「…っ嘘は止して、下さい」
「嘘、に聞えるのか、お前さんには」
ふ、と笑う。それは私が見た初めて彼が気を緩めた瞬間だと感じたのと同時に嘘なのだと解った。初めから解っていたではないか、と自分に云い聞かせ静かに、丁寧に返事を返した。勿論それは肯定だ。忠義兄様は優しげに目尻に皺を寄せた笑いをするものだから昔とは違う少し老けたのだと感じさせ、唇が震えそうになるのを歯で噛み付いて変色するのも気にせずにする。すると不思議な事に震えはぴたりと止むのだ。
「本当の目的は、お前さんの本音を聞きに来たんだがな」
ぴりぴりした、私は私でなくなるような、感覚だ。兄様が態々私の本音を聞きたいが為に此処まで来るわけがないと分かっていたからこんな感触を胸に抱かせているのかもしれない。じくじくする痛みは治まる処か広がりを見せるばかりだった。
(20100812)(×)(本音を隠しているのはどっちだろう)