どうして欲しい、どうしたい、それは結局私には適えられてもらえる事のない質問だ。いつも彼は私以上に彼女を第一に考え、行動し、感情を動かす。私には向けられる事のないものにいつも悲しんでいるのを貴方は、ねえ、気が付いているのでしょう。それでも知らない振りをして聞くなんて非道いわ。

08

「で、どうなんだ?」

湯気が空気に溶けて、何十分も経つとそれはたたなくなり見た目でも冷たいと分かる口のつけられていないお茶だけが二人の目の前に平等に置かれていた。忠義兄様の口から結論を急かす言葉が吐かれる。それでも私は口を開く気にもなれずただただ黙り、交わった視線を逸らす事も出来ずかと云ってこれ以上この空気に触れていたくないのも事実だった。どうしたらいいのだろうと、働いてくれない思考回路で考えた処で善い考えは浮かぶ筈がなく、自問自答が繰り返されていた。忠義兄様は分かっているのか、偶に可笑しそうに笑うだけで何も口にしない、そしてその待ち時間の制限が切れたのだろう、言葉が耳に響く。

「…私は、いつも本音を云ってます」

「はっ…俺以上の嘘付きじゃねえか?」

兄様は笑って、膝を盛大に叩いた。すれ違う事のない視線、ちりちりと痛む。
時計の針が四時を回り無意識のうちに声を洩らすとそれに気が付いた兄様は要か、とまた面白いものを見るような目で私を見ながら唇の端をくいと上げた。ああ、この顔は分かっているんだと思ったら隠す事が莫迦莫迦しくなってしまい、途切れる事の無かった視線を此方から断ち切った。立ち上がると足の裏に心臓が来たかのようにどきどきし、畳に靴下が引っかかっているかのように足が進まない。兄様は興味深い、とでも云うかのように視線を上げた。

「…帰ります」

足を持ち上げ襖に手を伸ばす。いつかのように気配もなしに背後に兄様が回っていたのか両手を一回りも大きい掌の中に拘束され畳に身体を押し付けられた。顔が思い切り畳の網目に当たりひりひりした。驚きで言葉を上手く云えない私を代弁してくれるかのように外の方から要の可愛らしい声が響き、此方までしかと聞えた。

どうにか逃れようと身体を捩るものの両手をやんわり拘束されているだけで身体全体が上手く動かない。要の足音が近づいてくる、軽快な歩調を頬に感じながら兄様の表情を伺おうと精一杯眼球を動かしてみるものの、表情はうっとおしいと思える長い前髪に隠れて伺い知る事が出来なかった。彼はどうするつもりなのだろう、要を思っているのならばこんな処見られでもしたら誤解を招くだけで善い事なんて一つもないのだ。

「お前さんの本音は、」

ぐぐ、と体重が行き成りかかり畳に押し付けられて頬がじんじんとする。兄様らしくない、否兄様らしいとはどういうものなのだろう。私は途端に安部忠義と云う人物が分からなくなる、最初から知りえていなかったかもしれない。廊下からの足音が近づいてくるのが分かり焦りに手がじわりと汗が滲んだ。どうにかして退いてもらおうと声を洩らそうとすれば答えを迫られ言葉が詰まる。

廊下の音が酷く近くに聞え、襖は今か今かと扉を開かれるのを待っているかのように感じた。忠義兄様はそれを気にも留めず相変わらず私を拘束したまま退こうとはしない。要がやってくるというのに、この人は何を考えているのだろうと、思考が廻る。要の気持ちを知っている癖に、私の気持ちを知っている癖に、この人はこんな行動を取るのだろう。無性に胃から込み上げてくる苛立ちが身体を蝕み、腕は自分のものではないような力を持つ。気が付いた時には忠義兄様は私から離れていて瞳は相変わらず鋭くもあり、面倒だと怠けているようでもあった。廊下を滑る足音は知らない間に消えていて、部屋にはまた沈黙がやってくる。視線をゆっくりと床に落とせば手首には赤い痣がじわりじわりと紫色になっていくのが痛みで分かった。ああ、この人は私の事が好きではないのだなと実感させてくれる痛みでもあった。そうしたら胸までつっかえて言葉にならなかったものがするりと出てきてしまうのには何度も振り返ってみても驚けることだった。

「私、忠義兄様の事何とも思っていません。思っていたとしてもそれは兄としての尊敬のような感情でしかない、それ以上でもそれ以下でもないのです」

見上げた先の視線を自分から絡めて、唇は青くなるのを空気で感じながらそこから動かす事を止めれば相手が先に折れ、初めて彼から視線を逸らしあらぬ方向へそれは向いていった。

「…そうか、お前さんの気持ち善く分かった」

「分かって頂けて助かりました」

「……ああ、」

私は視線を逸らす事も出来ず、そのままもう交わりのない空間へとただただ目を向けているだけだった。暗い部屋にでもそれなりに影は出来て彼が立ち上がったのだと感じる事が出来た。ああこれで最後なのだと思ってしまったら引き止めるような言葉を紡いでしまうと唇を強く、青いそれが黄色く変色するまで噛んだ。

「すまんな、痣、つけちまって」

手首の痣くらい時間が経てば消えます。
口にするまでもなく忠義兄様は襖の向こう側へ消えていった。すると天井から糸で吊り上げられていたように身体がばらばらと畳に崩れていくものだから哀しみはそれっきり弱くなる事はなかった。謝る言葉なんて要らない、貴方が欲しいですと云えるならばどんな事だってしただろうにと頭で渦を巻いてみるけれどもきっと私は彼の望む何かにはなれる努力はしないのだろう。好きで好きで仕方ない癖に手放してしまうのだろう。

独りしか存在しなくなった部屋はとても冷たくて薄暗かった。とてもさっきまで大好きな人がいたとは思えないくらいの冷たさに身震いがして、思わず涙がぽろりと目から落ちた。あれ、と擦ってみても自分の意思に反して畳に染みこむ。おじい様に叱られてしまうと分かっていても水滴は自分の身体から好き勝手に逃げていった。そして私は涙一粒一粒に彼への想いを一緒に落としていく事に成功するのだ。

君なんか捨ててしまうよ

(20100812)(×)(精一杯の努力をします、だからさようなら)