赤紫の痣は酷くこびり付いていたけれどもそれは数えられる限りで消えてしまう。寂しいと感じるのは可笑しい事なのだろうか、と自問自答してみた処で答えは見出せない。忠義兄様、と呼んだ所で彼が現れることなんてもうないとわかっているのに諦めの悪い自分は何度も何度も呼んで涙を流す。身を引いただなんて嘘つき、自分はこんなにも彼の事を好きで仕方ない。

09

「え、居なくなった?」
「うん…」

湯飲みを置くのと要が眉を下げたのが同じくらいだった。忠義兄様は高校教師を辞めた後要に姿を見せただけで何も云わずまた忽然と姿を消してしまったらしい。直ぐに要に云うだろうと身構えていた言葉は彼の口から出てこなかったのかと要と同じような表情をした。そして要はあの一件以来彼が昔大好きだった兄様だという事を思い出し、その名前を口にするだけで要は見たこともないくらいの顔をするのだった。この顔を見たら忠義兄様はきっと柄にもなく顔を朱くするのではないかと思ったくらいの笑顔だ。ふふ、と笑いながら自身の前に置いた湯飲みを手にすると要は頬を膨らませて兄様の事を教えてくれなかったなんて酷いと拗ねた。

「だって、口止めされていたから云えなかったの。ごめんね」

「だからって私、一人で空回りしていたなんて、!」

割りそうな勢いで目の前の湯飲みを机に叩きつける。折角の女の子らしさが台無しだとひっそりと嘆いてみるけれどもそれに気が付くような要ではない。確かに忠義兄様が怪しいと云ってから要は離れる事はせず付きっ切りと云っていいくらいにへばりついていた。まるで引っ付き虫のようだったと思い出す。それを思い出し笑うとそういう事にだけ察しが善い要は食って掛かってきたその際、湯飲みの中の余ったお茶が少し宙を舞った。

傷が癒えたのかと云えば嘘になるが、前よりはそんなに深く悲しんだりしなくなった。吹っ切れた訳でもないのに、要の事を純粋に思える自分が嫌いではなくなった事が大きな要因かもしれない。飛んでる、と注意すれば要は直ぐに顔を赤らめて恥ずかしそうに謝るものだから思わず頬が緩む。ああ、この子だから応援したくなるんだと笑えば要も同じように笑い返してくれた。忠義兄様は何で姿を消してしまったのか、それが胸に突っかかるけれども、きっと戻ってくるだろう。


それなのよね、と綾乃さんが納得いかない顔をして現れた。久しぶりなのだからもう少し縁起のいい顔をしてくれてもと思ったのだがいつかのあの恐ろしい笑顔を向けたものだから口を閉ざした。

何のこと、と誤魔化す言葉を紡げば分かっているだろうと唇を引く。
その顔にとても弱い事を知っているのだろうその表情を崩さずにいる。いつの間にこの想いがばれてしまっていたのだろうと掌を握り締めれば、強すぎて皮膚に爪が食い込む、退魔師として邪魔にならないよう爪を短くしていたにも関わらずそれは強く身体に残った。

「要の事を応援する事にしたの」

声色も表情も、体温も正常そのもの。何の異常もなく紡げた言葉に綾乃さんは瞳を険しくさせて私は思わず固めた決心を揺るがされそうになる。そう簡単に落ちてしまえる程簡単な決意ではない、と綾乃さんの目を真意に見つめなおせば八の字にした眉に唇が下がった。

「頑固な処はおじい様譲りなんでしょうね」

「きっとそうだと思います」

優しそうに見えて中々頑固な造りをしているおじい様の血筋を持っている息子の子供である自分だからきっと頑固な処はあるのだろう。要もおじい様のもう片方の息子の子供だから頑固さは同じくらいあるのだ、考えてみれば似ている処があるかもしれないと笑えば綾乃さんも一度云い出したら聞かないものねと同じように笑った。大人が二人部屋で眉を下げて情けなく笑う姿は周りから見たらどれ程滑稽だったのだろうと思い返せばまた可笑しくて笑いそうだなと思った。

「そうそう、あの方からこれを預かっていたんです」

「あの方…?」

「ええ、」

持ちやすそうな鞄から茶封筒を取り出した綾乃さんはそれを直接渡さず机に置いた。
私はそれが何の意味をもたらしているのか分からず、綾乃さんを見上げるが彼女は笑うだけで何も口にしようとはしなかった。その態度にあの方、が誰なのか瞬時に理解した私は知らず知らずのうちに表情が曇っていたのだろう、どうしますかと判断を仰ぐ綾乃さんの言葉に我に返り茶封筒を引き寄せた。そうだ、私は選ばなくちゃいけないのだ、この茶封筒の中に入っているものが何なのか分かっている。だから綾乃さんは直接私に渡すという事をしなかった、案外軽い中身は事態の重さを楽観的に見せていた。

「態々ありがとうございます、」

「選ぶのはさんです。私は仰せつかっただけですから」

「そう、ですね」

湯飲みに両手を添えて飲む綾乃さんは相変わらず似合わなかった。
ふふ、と笑いを零せばそんな事を思っているとは知らない綾乃さんは訝しげな視線を送る、私は頬を精一杯緩めながらそんなどうでも善い事を考えていた。

「そうか、お前さんはそれでいいのじゃな」

相槌を打ち、余裕かます笑顔におじい様は歳相応の皺をまた一本増やした。広い庭先に出て縁側に眼を向ければ視線の高さはだいぶ変わってしまったけれど昔の私がいるような気がした。眩しそうに眼を細めれば忠義兄様がそこで笑ってみていてくれる気がしたのだけれどそれは一瞬の幻に過ぎずそこには誰も腰をかけておらず静かな風が自分を包んでくれる、ただそれだけだった。幻でもいい、一度だけ逢いたい。呟こうとして気が付き口を噤む。もう心と同化してしまったと云っていい程長い間彼を想っていた私は少しでも気を緩める事をすれば、彼に逢いたいと思ってしまうらしい。本当莫迦だなと広い池の鯉に向かって呟いても彼らは口を何度も開閉するだけでその言葉の意味を知る訳がない。

要には何も告げずにいて、彼と同じような形になってしまう事に申し訳なさが込み上げてくるが、一生の別れでもない。また逢えるのだからと自分に云い聞かせて縁側から見える幻を振り払うように石を投げた。

二度目のさようなら

(20100820)(×)(私はちゃんと貴方を好きでいました)