あの人に会いに行く、久しぶりに神楽坂家に来たということを聞いたからだ。普段は着ないような肩を露出した服を着て、全くしないと云って云い程のお化粧をして、髪の毛も綺麗に何度も何度も梳いた。靴だってお気に入りのやつを履いて外に出る。一人暮らしをしているアパートの扉を少し乱暴に閉めると何処かで怒鳴る声が聞こえたのを無視をして私は走り出す。肩から上が少し寒い今日の天気も気にならないくらいに私は浮かれていて、傘を忘れたことも忘れていた。横断歩道の待ち時間がうっとおしくて眉間にシワが寄っているのに気が付いては唇に弧を描いてみたりして車の中からおじさんが訝しげな顔をして此方を向いて少し恥ずかしかったりしたのだけれども。走って五分の所にある神楽坂家に来るのは約二週間振りで門を潜ると二週間前とは何ら変わりのない風景が広がっている、けれど今の私はそれさえも特別な何かのようできらきらと輝いて見えてしまうのはあの人がいる場所だからだと思う。玄関に入るとあの人らしき靴が無造作に脱ぎ捨てられているのを直しては無意識に笑顔が零れた、頬が緩むのをそのままに廊下を慌ただしく走って目指す部屋はお爺様の部屋。きっと彼は一番にお爺様のところに向かうことを知っている。子供の様にぱたぱたと古い廊下で自分の奏でる足音さえも嬉しくて仕方なかった。

「お爺様!」
「…ん、?お、おお…か。何用じゃ?」
「忠義が、来てるのでしょう?」
「ああ、あやつか」

庭先に居るが、そう云ったお爺様にありがとう、と云って庭に向かおうとするとお爺様は静止の言葉と曖昧に微笑んだ顔をくれてどうかしたの、と聞くとまたもや曖昧な言葉だけで答えてはくれずに顎を杓っただけだった。私はその濁しの理由が分からないまま庭先に出てみると池の辺りに二人の人が立っているのが見え、厭な予感が頭を過る。嘘であってほしいと云う気持ちと、好奇心とが入り混じった感情のまま彼等を見ていると背の小さい彼女の方へとあの人が笑みを見せ何かを呟いた。読唇術が使えた私にはあの人が云った言葉もあの子が云った言葉もしっかりの脳に焼き付けて、彼が要を抱きしめた所もしかと見届けてしまった。瞬間的に、胸は痛みを植え付けていき、あれ程寒くなかった肩の冷えが途端に身体中で感じるようになって両腕で自分の身体を抱きしめてみたもののその寒さは腕の間からするすると逃げて行く。

昔から彼女と彼は仲が良かったけれど、十年は会ってなくてその十年の間に私はあの人と何度も会っていてその違いだけなのに私では駄目で、あの人が要を選んだとか。彼にとって私は只の同業者というだけでそれ以上のものにはなりえないというだけ。ただそれだけの違いがこんなにも大きいとは知らずに浮かれてここまで来た自分が莫迦らしくなり神楽坂家から遠ざかる。要の幸せが憎いわけじゃなく、忠義の幸せが苦しいのではなくてどちらも大好きな二人だからこそ私は足掻くことも本当の気持ちも云うことが出来ないのだと知るとき私には何もできることはもう残っていない。行きはあれ程嬉しくて仕方なくて、どうしようもなかったのに帰りはとぼとぼと肩を縮込ませて帰る自分は何て滑稽な姿だろうと笑いそうになった。

すると空気を読んだかのように空から滝の如く雨が降り始め、自分以外の人々が早々と通り過ぎて行く。身体全体がびしょ濡れなのも他人事のように歩く。肌が出ていようがいまいがあまり変わらなくなっても歩く速度は一向に上がることはない。

剥き出しの首筋に打ち付ける

2009.12.03