酒場で莫迦騒ぎをして、プラス毎晩通っているともなれば酒浸りのどうしようもないヒモ男の看板を背に背負ってやってきているようなものだ。顎を無法地帯にし、髪の毛もふけが舞っていようがかまいやしない、酒を飲むのになんら支障はきたさない。服も遠めからでは分からないが近寄ってみると薄汚く指折り数えても思い出せない程昔に洗濯に出したのではないだろうかと眉間に皺を寄せるほどの臭さだ。黒に近い灰色の渦たちがそこかしこで莫迦騒ぎをしている。足を踏み入れた当初はろくでもない場所だと一瞬頭に浮かべたものも酒場の空気に呑まれたら最後この灰色たちとまったく区別の付かない塊になるのだろう。しかしこの雰囲気から逃れられるには余程の精神力と酒浸りへの嫌悪感がなければ耐え難い。はその耐えられた稀なひとりであり、彼女の意識はもとよりたった一人へと向けられていた。
「よお、意外と早かったじゃねえか」
地獄の門より一番遠いソファーにはこの息の詰まるような臭いと汚さとは一切無縁の男がまるで自分の店であるかのように踏ん反り返っていた。両隣には何処から現れたか知らないが纏う必要などあるのだろうかとつい思ってしまう程度の最低限の生地しか身につけていない女が男に肩を抱かれていた。肩を抱く腕は次第に長く伸びていきまるで腕の逞しさと長さを自慢するかのように女の肩上でく、と折れ曲がった。そしてそのまま面積の少ない布が中心に存在する女の勲章と云えるであろう脂肪の塊を大きな掌が包んだ。普通の真人間ならば悲鳴のひとつ、否平手打ち、否回し蹴りをされても赦されない奇行であるそれを両脇の女たちはきゃっきゃっと赤ん坊のように喜んだ。その渦中にいるであろう男は女たちの対応に満足したのか、にやりと笑った。汚い場所が厭な癖にこんな場所に足を踏み入れたのはこういう理由があったのか、とは周りが盛り上がっていく中、ただひとり気分は斜め下を行くばかりだった。
いつもならば勝手に何処かへ行ってしまう男の事など気にも留めない。何処で引っ掛けた女と一夜を過ごそうが、酒浸りになっていようが、構わない。けれど今日だけはそんな無関心を蹴り飛ばさなければいけなかった。男—クロス・マリアンは自分の師である—がこの世で初めて声を上げた日。今のように女たらし、酒浸りとは無縁の白い身体と生を受けたのが今日だった。男が自ら、誕生日だから祝え、と云う性質ではなかった為情報は得られず、去年までは自分の誕生日にさえ無関心だったのだから師である男の誕生日など知るわけがない。それがどういうわけかもうひとりの弟子であるアレン・ウォーカーが師の誕生日をに耳打ちしたのだった。男の弟子になってから二年目であるに対してまだ一年目にさしかかろうとしているアレンが何故知っているのかと首を傾げ様に情報源を聞いてみたが、アレンは顔に闇を落としぼそりと師匠の愛人が漏らしたんですよ、と云った。
「師匠の愛人は何度も見たことあるけれど、」
そんな事を云ってくれる人はいなかったよ、とアレンに告げれば闇は一層深くなり言葉を口内で転がした。(敵に攻略法を教える程、相手も莫迦じゃないってことです)この言葉の答えを聞く前にもう一人弟子は師に余計な言葉をに伝えたことがばれる前にと脱兎の如く逃げ出していた。は結局答えを知らぬまま、師の誕生日だけを得た。師の誕生日を祝おうと前日に明日は空けて置いてくださいね、と普段の彼女からは想像もつかないようなやさしい声色で男に告げた。だと云うのに男、クロスはすっかり忘れていたのか昼過ぎからいつものように姿を眩ました。そして躍起になって捜索をかけた結果がこれだ。弟子のいる目の前で女の乳房を(しかも両手に違う女の)揉みながら、わざとらしい笑みを浮かべる。まるで見せ付けるかのように、腕に力を入れ更に両脇の女との距離を縮めた。もとより距離らしい距離はなかったのだが益々身体の密着を赦したクロスに両側の女たちはしなやかな身体を蛇のようにくねらせ、腕は蔓(つる)のようにクロスの身体に纏わりつき始める。普段居つくこともない空間にいる気分の悪さも相まってかの気分は益々酷くなる。
「お前も混ざるか、?」
くすくす、くすくす、笑う女の声が後に続く。女特有の厭な臭いに返答する気力は最早なく、時間の無駄だったとは未だに揉みあげている師の掌を汚物でもみるかのような視線をやり出口へと走った。透明な空気を吸い上げた肺は脳に安らぎを送る。後ろを振り返らずとも分かる違い。善く聴く耳通りの善い声で自分の名前を呼んだ気がしたが振り返ろうとはそもそも思わなかった。宿屋へ戻ろうとすっかり重たくなった足を動かす。自身との約束は半日のうちに忘れてしまうほどのものなのだ。二年という長い歳月を重ねて師の心の片隅でも思っていてくれたらと一瞬でも期待した自分が莫迦だった。数秒前に顔を合わせただけの女と半刻もあれば(もしかしたら数秒あれば)ベッドへ転がり込んでしまえて、酒場で人目を気にせず女の乳房を愉しむようなひとが弟子よりもそちらをとることなんて直ぐに分かる事だったのだ。
怒りに身を任せたままあっという間に宿へ着いてしまい、外から窺い知る限りではもうひとりの弟子は気を利かせたのか、師の捜索からまだ帰ってきていないのか電気はついていなかった。部屋に戻ってもあとは睡眠を貪るしかすることもなく、さっきまでの厭な気分が尾を引いていたためは宿に背を向け滞在二日目のまだ知らぬ街の闇へと潜り込んだ。
「師匠に、自慢するような脂肪はないし」
誘惑する体つきでもない、身に着けているものもワイシャツに細身の黒パンツ、ヒールの無いパンプス。女らしさの欠片もない、と云われたら返しに困る格好だった。(だからと云って服の意味を成していないような格好もまた違う気がする)煌びやかなスポットライトからみえる可愛い、綺麗、な洋服たちはどれもの着たことのないものばかりが並んでいた。いいな、と思っても店の中まで入ってそれらに袖を通す勇気はなく外から眺めて人より少ない欲求を満たしていた。師の両脇の嘲笑めいたものが酷く耳障りなはずなのに、そういうものに限って忘れ難く、鼓膜にガムのような粘り気を帯びる。
(——お前も混ざるか——)
クロスの言葉が反芻される。
混ざるか、と悪態をつけば益々喜ばせるだけだろうが、クロスは無視して去っていったの心の底も読み取れているのだろう。悔しい—ショーウィンドウに並ぶ綺麗なドレスを見上げながら呟けば通りがかりの人間が驚き様にを見た。肯定したのなら今頃は師の足の間に挟まり、聴いたことのないような声色で囁いてくれるのだろうか。と想像したら途端に恥ずかしいような、むずがゆさを鳥肌が立った時の感覚を身に受け慌てて首を振った。ワインの染みが広がり水で流しても落ちないように一度師の事を考えてしまうと赤い髪の毛が脳裏に何度もちらついて仕方なくなるのだ。お前も、と云ったのは弟子がこうなると分かっていて遊んだまで、それに気付くには沸騰した脳を覚ますまでもう暫くはかかった。
「オイ、莫迦弟子」
長い事してなかった洋服めぐりも年中頭が沸いたような師より勝らない、と自覚したショックで早々と切り上げ宿の明かりも相も変わらず現状維持だ。電気をつけようとは端から頭にない。とりあえずは不貞寝だ、これに限る。は部屋に師が酒場の女を連れ込んでいない事を確認し、一番隅に用意された簡易ベッドへと身を投げた。のにだ、平穏は彼女の味方をすることはなくうつ伏せた背中に厭な声が刺さった。気配など全く無かった、影も無かった、狭い部屋の中で隠れる場所など何処にあっただろうか。は精一杯考えうる限りの状況を考えたがどれにもこの現状を説明できなかった。
「…な、ななな…」
「莫迦か、」
マリア、とクロスが暗闇の中で呟く。そしてそこでやっとは師が彼女を使ったのだと気付く。背中に感じる重たい空気。空気が裂かれる音とベッドが盛大に沈んだのはほぼ同じ。条件反射で床に身体を打ちつけたは苦痛に顔を歪ませる。ベッドの惨状を見れば床との接触は師に与えられる痛みと比較すれば撫でているようなものだと、一瞬で駄目になったスプリングから見える振り落とされたとされるクロス自慢の足の間でバネが悲しげに揺れた。
「こ、殺す気ですかっ!」
「んなわけあるか。寝ぼけてないか確かめてやっただけだ」
血の気が失せていく身体が寒気を訴えるとともに、一向に明るくならない部屋で体格の善いクロスはの視界にはぼやけた影しか捉えられない。その異変にすっかり気付くタイミングを逃したは怒りのままに言葉を返す。
「確かめるならもっと違う方法で確かめてください!」
「俺のミルクを飲ませてやろうか、?」
「………っっこのっ!すけこ…」
スケコマシ、おんなたらし、巨乳好き、変態、と続けようとした言葉は最初の単語で呆気なく崩される。崩したのは勿論言葉を引き出す要因になった男だ。いつの間にか距離をつめていた彼女の師は軽々と弟子の腰を引き寄せた。初めて、を百戦錬磨に一瞬の隙で奪われた衝撃か、はたまた恥ずかしさか(どちらにせよ、怒りは含まれる)顔は唐辛子のような赤さになったそれを暗闇の中でクロスは笑った。
「誕生日プレゼントはこれで十分だ、」