マグル学と云うのはマグル、つまり魔法使いではない人間からしてみたら何て事のない極平凡な事を延々と学んでいく学問であると共にあまり学業成績が宜しくなかった私の為にあるかのような教科だと思った。在学中はその学問を取る事は一度もなく最高学年まで行き遂に念願の卒業まで漕ぎ着ける事が出来たが、魔法省に配属される程成績(魔法使いにしてみたら致命的な程呪術が苦手)も善くなかった私は卒業後は実家に帰り、家業を継ごうと思っていた矢先ダンブルドア校長先生から直々に残って欲しいと云われた時は喜びよりもどうしてと云う疑問の方が先立った。残りたい理由が何もなく、教える側としても適しているとは到底思えなかった私はその誘いを断る。問題を起こした生徒を見つけても杖を一振りすればその生徒以上に此方が叱られてしまうだろう惨事になる事は分かっていたし、教える側に就くような能力が果たして自分にあるのだろうか甚だ疑問だ。初めはそれで渋々帰って行ったダンブルドア校長先生も数年の歳月を得てまた訪問して来た時には心底驚いた。

紅茶を客人の手前に置きながらホグワーツは暇なのだろうかと訝しんだが例のあの人の手下が蔓延る魔法界、特に学校長兼偉大な魔法使いと呼ばれる程の彼が暇な訳がないと思い直す。魔法界であれ程酷い惨事を毎日新聞で読みながら自分達に被害が及ばないだろうかと身を縮める日々を送っている魔法使い達に対し、マグル界は対照的で腰を抜かしてしまうくらい平和な空気が立ち込めていた。少し眼を向ければ哀しい戦争の軌跡が分かってしまうのは魔法界に居た名残だろう。穏やかに微笑む翁はティーカップを片手に持ちながら開口一番には数年前断った筈の教職の椅子。

「何でまた…」
思わず呟きが洩れる私に対し断る事等ないと云うかのような絶対的な自信を表情に湛えながら切り札を出す、その言葉によって否定等最早出来なくなる私にどうじゃ、と書類を差し出す辺り食わせ者だと内心思うのだけれどそれを押し隠しながら教職の仕事を請け負ったのだった。




契約を交わしてから一ヶ月後にはホグワーツの門の前に立っていた。
生徒としてではなく教師として校内を歩く行為一つを取っても変な気持ちになる。歩いていれば生徒が挨拶を向けてきたり先生、と呼んで質問をする。私には慣れない事が多かったけれどもそれを緩和してくれたのがスネイプ教授の存在だった。ダンブルドア校長先生から紹介された場で私が教職員となる事を初めて知ったらしいスネイプ教授、は姿を見るなり思い切り顔を顰めさせて生徒達の顔が同情をしたくなる程に青くなるのを見届ければ昔とあまり変わってないのだろうと思った。案の定授業をする為に参考までにとダンブルドア校長先生からの押しで一日ずつ色々な教科の担当教師の手伝いを提案され、私は快く応じる。何教科、何日間が過ぎ明日はやっと彼の授業と手伝いだなんて少し浮かれた気分で居た私を恥じた。彼が闇に走った時から今日までまだ一言も会話はおろか声さえも聞けていなかった、優に四年目に突入してしまうくらいの期間だ。

「積もる話もあるじゃろうて、セブルスの授業は二日間にしておいた」
と告げられた時は目が飛び出て一人歩きしてしまうんじゃあないかと思ったくらいだ。ダンブルドア校長先生、職務乱用じゃあないでしょうかと云う言葉をぐっと堪える。驚きはするけれども嬉しい方が勝っているのだ、悪戯が過ぎる翁の言葉を彼が翌日に聞き怒り狂うまでは私の心は跳ね上がっていた。全てが事後報告らしいと云う事は彼の様子から見て手に余る程分かる。

「久しぶりです、スネイプ教授」
「…教授と呼ぶような仲でもあるまい」
地下室に足を踏み入れた瞬間から此方を一度も見る事なく生徒が焦がしたらしい鍋とせっせと磨き上げている彼の背中しか私はまだ見ていない。釦の沢山ついた服が限界まで捲くられそこから思いっきり見える腕は相変わらず白い、細さだけはどうにか成長と共に改善されたのか男らしい(がまだ細い)腕になっていた。

「じゃあ、セブルス?」
「此処から追い出されたいのか」

教授が駄目ならば名前しかないでしょうにと顔を顰めれば彼は私以上に顔を歪ませ、まるで昔の自分をそのまま着て来た人を見るかのような眼が初見なんて最低も善い所だ。過去の彼、つまり生徒として在学していた彼を知るのは職員でも少ない。だから昔の彼を善く知っている私は嫌悪の対象らしい事が見て取れた。

「今日から二日間助手を務めるのだからもう少し仲良くしましょうよ」
「善かろう、そこまで渇望とならば此処からとは云わずホグワーツから出て行けるよう校長に話しておこう」

鍋を洗う手が止まり、捲くられた袖を直し始め仕舞いには面倒な程沢山ついた釦をつけ始めた処で慌ててそれを止める。手を掴めば苛立ちを隠せない様子の彼が私を見下ろして触れるなと云いたげではあったがそれを言葉として発する事はなく色濃くした健在の眉間の皺に更に縦皺を一本(多分)増やし何処からか出した杖を一振りすれば鍋は自分の足で棚の中へ戻っていった。彼は私の脇を通り過ぎもう直ぐ授業なのだろう、苛立たしそうに用意しろとだけ告げて奥の部屋に消えた。助手と云う役目なのだからその言葉は合ってはいるのだけれど何を用意して欲しいのか告げずに奥に身体を溶け込ませた彼に溜息を吐いた。

緊張しているのは私だけかとも思っていたけれど、彼も同じらしい事がこういうミスで分かるのは長く彼と共に時間を共有してきた成果と云える。だからだろう、昔馴染みが同じ職業を持つのを酷く嫌う傾向にあるのは。多分自室であろう奥の部屋に消えたままの彼を数分立ち尽くして待ってみたがうんともすんとも云わない扉に痺れを切らし、もう直ぐ授業があるのに何が必要かも分からないと奥へと進み扉を何度か叩いて見ても返事は無かった。(嬉しすぎて中で泣いているとか、無いな。じゃあ厭過ぎて倒れているとか…余計有り得ない話だわ)

「せぶ…スネイプ教授、何が必要なのか聞いていませんよー」

声を中にかけてみても返って来るものはなく、嗚呼どうしようと扉を背にもたれ掛かればそれは私の意志関係なく自室らしき部屋への侵入をしてしまう。がたん、と扉が壁にぶつかった処で私の驚きも止まる。どうやら自室で合っているらしいそこは結構な広さだと云うのに机と天蓋付きベッド(此処でも黒色とは)が置かれているだけの質素なものだ。見渡し終わったのはいいが居ると思っていた彼が居らず何処に行ったのだろうと疑問符を浮かべればベッドに置かれた黒い服を思い出したと同時に壁際に扉が一つあったらしいそこから黒が少ない彼らしくない格好が眼に入る。眼を見開いて驚く私と、眼を剥いて呆気にとられる彼とどちらの声が早かったのだろうかと確認するまでもなく私は叫びながら部屋の扉を閉めた。

(本気でホグワーツから追い出されるかもしれない)
心臓が痛い程までに鳴るのを手を乗せる事で押さえつつ、もう数分したら顔を合わせなくてはいけない苦痛に彼が何処まで耐えられるだろうと不安を抱える。私は何も見ていないと暗示を掛けながら二日目はダンブルドア校長先生に相談して取り消して貰おうと思った。

08#ただの眩暈だと思っていた