「私たち、結婚するの」

それは、突然やってきた。
手にしていたフォークは朝食を食べるためのもので、からん、と喧しくなったのは、驚きで指先の力が弱まったせいだった。呆然として、視線までもつまづきそうになりながら、四つの瞳をぐるぐると見ると、向かえで腰掛けている姉の、リリーと癖っ毛が魅力的になったジェームズ・ポッターが居る。ふたりともそれは幸せそうな表情で、一度お互いの顔を見合って、それから「私たち、結婚するの」と云った。

まさか、そんな、と絶望的な気持ちで居ることに、幸福の絶頂期であるふたりには知る処ではなく、かたかたと震えてしまいそうになる唇からは、なんとか「いつ?」という言葉が溢れた。

「来週よ。早い方がいいかと思って」
「盛大にしたかったんだけど、リリーが…」
「あら。こじんまりしていたって結婚することには変わりないでしょ」

早々に尻に敷かれた兄となりうるジェームズ・ポッターを見ながら、困惑の渦に巻き込まれていくのを感じる。ただでさえ朝の気分は良好とは云えないのに、一層重たくなったために、口に運ぶ気持ちのなくなった料理を、台所へ持っていくことにした。背にすれば逼迫した感情にゆとりが生まれるかとも期待したが、どうやら立ち上がるだけ余分に体力を使っただけだった。

姉のリリーは学舎でひときわ、眼を引く存在だった。今に至るまで、持ち前の輝きは損なわれることなく常に身に纏われて、憧憬の眼差しやそれ以上のものを与えられるのは珍しくなかった。背後で情けなく「リリー」と零す青年もまた、そのひとりに過ぎなく、姉にしてみたら取り巻き以下であったに違いない。それがどういう転機を向かえたのか、妹である私には理解の範疇から随分遠ざかったようで、ふたりの間に漂う雰囲気に疑問を感じた頃には、既に、恋仲であったことは周知の事実だった。

「幸せになれるよ、僕たち」

姉にぞっこんな兄は、砂糖をたっぷり混ぜ込んで「幸せ」という言葉を告げる。その声に益々焦燥感に駆られる理由は、ただひとつしかなかった。幼少期から姉の傍にいて、魔法への関心を心ゆくまで寄せた彼のこと。姉を通して友人の縁を結んだ彼の瞳は、いつしか姉へ、姉だけを見るようになった。もしかしたら、それは始めからで、私が気付かなかっただけかもしれないけれども。姉の微笑む横顔に、焦がれを感じているのだと知った時の、云い難い苦痛をなんと呼べばいいのだろう。彼は、似たような気持ちを抱いていたからか、私の持つそれを「不完全な恋」と呼んだ。

「私も、見込みのない恋をしているよ」

そういうと、彼の黒檀よりも深い色の双眸が動揺を誘い、振り子のようになるのを知った時、私の見込みのない恋は圧倒的な絶望感で満ち満ちることになる。本来から感情の起伏が少ない彼のこと、波及していく痛みに気づけるのはきっと、この世でただひとりだけ、という悦に浸っていることが、些か罪悪をも呼び寄せる。

「打ち明ける…つもりは」

木枯らしのように素っ気なく、だからといってむきにさせるような強みを含まない彼の言葉は、優しい。姉の周りに湧く大勢の仲間に囲まれている様子を、遠巻きにみながら、尋ねる彼の瞳は逸らされることはなく、慕情だと嘲笑される中で、彼は謹厳そのものだった。赤毛や、造形は、時々双子かと尋ねられるくらいに酷似しているのに、外見をそっくり抜いたその他全て、姉の正反対だった。見ていないことを知りつつも、首を降って意思表示をしたのなら、彼はとても静かに、線香花火のような刹那さで、笑った。

「身内と、ほんのすこし、友人を呼ぶのよ」

姉の声が耳管を通して、頭を揺さぶられると、条件反射のように跳ねた身体をややおかしそうに「寝ぼけているのね」と云った。取り繕うように、振り返ると、姉と兄になるジェームズは、また顔を見合わせて笑っている最中だった。ほんのすこしの友人、に彼は含まれているのだろうか、と思いながら、それを担うのは姉の役目であるのか、立場同じくして同盟を組んだ私なのか、と考える。姉の隣で、兄が「悪戯組はもちろんだろ、あとは…」と数合わせをしている声をぼんやりと聞きながら、彼は含まれないかもしれない。と云う二度目の期待はまたしても呆気なく、外されてしまう。

「セブルスも呼びましょう」

もうひとりの姉であるペチュニアの名前を数えた後、姉は当たり前に、彼の名前を呼んだ。その一言で甘々の雰囲気でいっぱいだった、兄の表情は崖から突き落とされた小鹿のように、唇をひん曲げて、不幸のどん底に陥った顔をした。

「リリーそれは同意しかねるけれど…あのスニベ…」
「ジェームズ!」

先ほどまでの幸せな空気は、姉の鋭い叱責によって吹き飛ばされて、兄はしまった、と肌を青くさせたが時既に遅しというものだった。兄は往々にして、以前の子供じみた言動をしてしまい、姉を激情させることもしばしばある。蛇蝎のごとく嫌われていたのを思い出したのか、すぐにそれも腹中へ引っ込められるのだけれど、撤回は聞かない言葉というものもあり、姉はやや荒々しく椅子から立ち上がって外へ出て行ってしまった。

普段の温厚さから想像を絶するほど、赤毛に似合った情熱を燃やす姉の背中を、弱々しい背中が追いかけていく。扉が二、三度ぱたぱたとやかましく鳴り、姉の名前を呼ぶ兄の情けない声色も遠ざかるのを耳にしながら、手近にあった椅子に腰を下ろした。

「…なんて似合わない」

いわれのない誹りが、痛々しく、同時に姉よりもずっと長いこと兄のことが嫌いだった。兄だけではなく、隣にいた美男子や、一歩下がって関心のなさを見せていた青年、その一番後ろで身体を震わせていた小柄な人も、彼を挫くものは全て。彼は誰よりも崇高な心で姉を想い、幸福を願い、エメラルドを曇らすものは一切受け付けず、排除しようとした。姉を一等において、大切にしていたのに、同じ寮で、共有時間が多いというだけで、さらわれてしまったことは、他人事のようであり、無関係ではいられない。

彼は一度たりと、憂いを落としたこともなければ、弱音を口にすることも、愚かしいと一蹴するほどに、確固たる意志を持っていた。目と鼻の先で整頓された文字を、一字一句違えず読み込む姿は、危機せまるようであり、学生の身分でそこまで勤勉に物事へ取り組むのは、珍妙であり、姉とは別に、好奇に晒されたのだ。

時々間違えられることをいいことに、姉のふりをして、恍惚に身を置いたりしていたことから、もしかしたら、という軽い気持ちでそっくりな赤毛と造形で、彼の背中にしなやかな腕を回し、情緒をたっぷり染み込ませた声色で呟いたことがある。尊大である筈のない姉の清廉さに泥を塗るように、近づき、彼が向ける一辺倒な心持に触れたくて、したことだった。

「ーータチの悪い。冗談で済ませられないこともある…」

ローブ越しから感じる、彼の体温が上昇傾向にありながら、放たれる言葉の冷ややかさに、遠ざかると、頭をもたげた彼の瞳は、姉に向けていた焦がれなんてものは一切なく、憮然とした。図書館の死角で、及んだ似つかわしくない行動は、厳粛な場により、四散する速さは尋常ではない。そう感じると共に、彼の想いはとても深い処にあって、何人も気を赦さない部分に隔離されたもので、比肩するのを拒まれたようだ。

「セブルスは騙されないのね」
「フン、当たり前だ。お前とリリーは全く似ていないのだから」

お茶を濁すように、舌を出して冗句に置き換えれば、彼は容易に流されてくれながら、やや心外だと云わんばかりの眉間の不機嫌さと、言葉を容赦なく突きつけられる。「似ていない」と云うのは、彼と兄になるジェームズくらいだった。今思えば、それは、彼が兄と同じくして姉へ心の重きを置いているという証明の他ならない。突然の波が全てをさらうように、私の様々な気持ちは浸水してしまって、頭が真っ白になった。

「叶わない恋をしているよ」

見込みのない恋が、永遠にみのるのを否定された、姉を見つめる彼の背中を私が見つめる。自分の背中は誰かが想いをかけてくれているのだろうか、と見ようとしてみても、眼は目の前の勤勉な蝙蝠しか映らない。きっと彼は、私の寄り道さえもなく、ただ一途にまっすぐに、姉を想っているのだろう。

「やっとお赦しが出たの?」

離れ離れの背中たちが、仲睦まじく寄り添って戻ってきた頃には、陽は頭上をゆっくりと焼いていた。朝の騒動から些か間を置くと、許容量の圧縮ができるらしく、薄く開いた隙間から余裕を押し込んで、ふたりを見る。半ば呆れ気味になりながら、台所で頬杖をついて、物思いにふけっていた所為で台所から脱出することを忘れてしまったのを、後悔した。

「ええ。ジェームズが誠意を持ってセブルスを招待するのよ」

途端に、兄の顔面崩壊が顕著になり、無理に誓わされたのだと分かったけれども、そうでもしなければ直ぐにでも婚約破棄されてしまいそうな勢いでまくしたてられたのだろう、と想像がついた。姉の顔を見れば、凛として然るべき対応だと云わんばかりに、笑顔をつけて私を見ていたから、間違いではない。招待する方も厭厭であれば、される方も確実にお断りしたい相手であるが、間に挟まれた姉という存在が弊害を帳消しにする。ああ、可哀想に、と精一杯の哀れみを彼に向け、もし私にその鉢が回ってきたら、と考えたのなら、鬱々とした気持ちに落とされなくて済むのだ、と安堵するも、彼はどちらにしても一等の不幸に見舞われる事実に変わりなかった。

2016.07.14