響く音色の美しさに誘われて、寝入っている四不象を置いて音の正体を辿った。深夜ということもあり辺りは誰も居らず、野原一面の風景に何処からか聴こえてくる声。睡眠妨害だ、と普段の太公望ならば憤慨するところがその声に誘われるがまま野を行く。太公望は不思議で仕方なかった。眠気に敗北しかけていた目蓋は力を傾けた。くしゃくしゃのままの髪の毛が風でなびき、寝癖はあまり目立たなくなる。この真夜中、男の髪の毛の状態がどうであれ気に留める者も、指差す者もいないのだが。濃度のある雲と漆黒色の髪が混じり合い、奇妙な連帯感を発揮していた。太公望はそれらに目もくれず草木を潰していき、音に近づく。柄にもなく胸をときめかせた。重かった瞼も、眠かった筈の脳もすっかり晴れ模様だ。 「———−−」
言葉にならない。ありふれた言葉だったが、まさにそうだと太公望は思った。 「どちらさま……?」 ぴたりと、止んだ歌声に重ねられた言葉もまた美しい。止んでしまった事への心名残と気配を拾われた事への恥ずかしさで胸は渦を巻いた。いくら視界の広い場で自由を唄っていたとしても、隠れて聞いていては盗み聞きと変わりない。太公望は観念したように濡れた草木に足を滑らせる。
「これは失礼した。我が名は太公望」 たどたどしく名前をなぞる少女に近づいて行く。近場まで着てみると印象はまた変化を見せ、少女のようだと立てた予測は一段飛ばし、青年の一歩手前のようだ。それでも興味深そうに見上げる女のまあるい眼は少女特有の初さを表現していたし、月夜に照らされる身体も何処かあどけなさはあった。「よろしくね、太公望」と紡いだ唇はそのどれをも超越し色香を放ち、珍しくも枯れた男もそれにあてられかけた。仙人がこうも容易に動揺を生み出しては、と首を振った太公望に少女は、と名乗る。名まで滑り落ちそうな響きだ、と思った。
「先ほどの、歌をもう一度聞きたいのだが」 照れを隠すように歌を催促すれば、は「よろこんで」と快くそれを受けた。唇が緩やかに開かれ、それに魅入る太公望の耳にはまた美しい音色が流れ込んで来る。間近では全く違った迫力に喉が鳴った。それすらも邪魔だと感じてしまう程に少女の歌声は美に溢れていた。一時の苦痛を全て取り除いてしまえるような少女に太公望は、この後どう切り出そうかと策士らしい網を仕掛けるのだった。 (深海の月と優しい謡唄い)(20151112)(×)(わしと共に行かぬか) |