※触れられない温度を求めていた.ヒロイン

睡眠はいらぬ、と豪語した割にはよく寝る男だった。不在の間は、図々しくもベッドを占領していたし、ソファーの上が、彼の居場所だったのに、いつの間にか範囲を広げられていた。日中は窓際で日向にあたってぐうすか、鼾をかき、光合成でもしているのか、と思うくらいに、陽を浴びることを喜びとしていた。ああ見えても年寄りらしいから、三大欲求の中で睡魔が大半を占めることには、特におかしいとは思わなかった。そう云うと「失敬な」と反論が返ってくるから伏犠をみれば、格別怒りを向けて、といった感じでもなく、だからと云って会話を愉しんでいるようにも思えず、読めない男の表情を見るだけ。

「今日の晩御飯は旨そうだのう」

夕飯の支度中に、起きてきた伏犠は、遠慮というものをすっかりしなくなって、ひょっこりと手際を覗き見る。あれ、元から遠慮をしていただろうか、と思い直そうと、頭は振り返りを求めたけれど、あんまり考えすぎると頭皮に悪い。伏犠は伏犠だ、と深く考えることは早々に諦めた。久々に揚げ物が食べたくなり、唐揚げをあげていた時だから、匂いにつられての事だろう、と思う。食事が必要ないくせに、物欲しそうな顔が、視界の端で揺らいだ。

「あげないよ。今月ピンチだもの」
「ピン……?」

彼は中国の生まれ、だと云っていただけあって、英語には弱かった。
普段は小難しい語句を並べて、私を困らす遊びを愉しんでいるのに、今や当たり前に、世に出回る外来語には、白旗を降るしかないというのは、少し可笑しかった。

「で、ぴんちと云うのはどういう意味なのだ」

私の笑いが、彼にも伝わったのか、不足顔で私を見た。こういうところは、森羅万象手にした感覚の、伏犠という男ではなくて、もっと、別の、人間のような、近しい存在に思えて、嬉しくなる。ひと月以上、共同生活をしていると、黙りが大半だったのに、些細なことにも、突っ込んで聞いてくるようになった。私も一人暮らしの、弊害である沈黙を、行使することはあまりしなくなった。

「ピンチは危機とか、そういう意味」
「差し迫っている……懐が寂しいと云うことか」
「……当たってるけど、他人に云われると腹立つね」

唐揚げをキッチンペーパーにあげると、隣で「いい匂いだのう」と催促をするかのように、呟かれる。そんな声を出したところで、私の懐事情が良くなるわけでも、隣の男が、態度を改めることもない。どれも私にしてみれば、いいことはないのに、愛想を振りまく気は、さらさらない。内心の探りを入れることに長けているからか、私が分かりやすいからかは、見当がつかないけれど、伏犠は、私から貰うつもりはないようだった。

「まあ、お主がそう容易く、わしの云うことを聞くとは思えぬからのう」

伏犠は、ニヤリと、いかにも怪しげ、と云う笑いを口元にためて、私を見上げた。
彼は古人だからか、現代人の平均身体よりも下回っていた。私がそれ以上ある所為で、彼がこじんまりして見える、という事実は、気付かなかったことにしよう。どう策動しようかと、わざと見え見えの顔をする、伏犠を睨んだ。

「伏犠の云うことがまともだった試しがないから」
「何を云うか。わしは常に大真面目だ」

自己評価ほど、あてにならないものはない、と今度はケタケタと、陽気に笑い出す男に、手が出てしまいそうになる。この間、可愛げがない、と云われたばかりで、その上暴力女と足されては、たまったものじゃない。菜箸で油切り出来た唐揚げを、何気なく持ち上げると、伏犠は眼を丸くした。

「今回だけだからね」

まだ粗熱の残る、揚げ物を、緩みきった唇に押し当てる。日常に織り込まれた、ささやかな彼の愉しみに付き合ってあげているのだから、少しくらいの意地悪は赦してもらおう。「あっつ!」と普段の内側の読めない男から、脱却した新しい彼が飛び出して、叫んだ。もしかしたら、これが彼本来の素の部分ではないか、と凝視するけれど、それは瞬く間に引っ込んでしまった。唐揚げはきちんと口内へ入っていき、咀嚼をする音を、静かに聞きながら、感想を問いただそうとする前に、食べ終わった伏犠の方から、先に答えを貰う。

「まあまあ、いけるのう」
「素直じゃない」
「率直な感想だ」

伏犠はそういいながらも、調子付いて、二個目に手を伸ばそうとした。まあまあ、の割には食が進むことだ、と菜箸でグローヴを叩いて、釘を刺す。

「もう一つくらいよかろう」
「調子に乗るな」

背の高さから、優位に立とうと、お皿を遠のかせると、伏犠は「口が悪い上に意地も悪い」と悪態を吐いた。暴力女を回避しようとするあまりに、口の悪さを隠すことを疎かにしてしまい、見事に可愛げのなさから、口と意地の悪さも足され、気分は急降下。彼にしてみれば、食への欲求なんてないのに、恵んであげた相手に云う口ぶりではない、と反論しようとすると、伏犠は勘の良さを発揮して、高々かかげたお皿を、空間を裂いた先へ持って行ってしまった。

「あいつ……」
暴言を吐かれた上に、懐寂しい人間の夕食まで盗んでいくとは、とんだ同居人だ。ついさっき口の悪さを、矯正しようと誓った筈が、伏犠の行動ひとつで無駄に終わる。繡い目の消えた空間は、少し淋しげに映り、すっかり伏犠という個体によって、世界感を覆されたことを知った。

(其の名はあまりにも神聖で)

(20160123)(×)(懸想であるような心持ちをあなたは笑ながら飲み込む)