※立てられた爪さえいとしい.ヒロイン


給仕の職務を与えられたこの日は、少し痛む背中を密かに労りながらだったから、普段よりも手間取ってしまった。丁度、昨日の出来事を思い出す痛みに、顔に熱が集まるのがわかる。溶けてしまうようだ、と思ったことを何故かスープを見て思い出してしまい、危うくこぼしてしまうところだった。食器の音がけたたましく聴こえてしまうのは昨晩の寝不足がたたっているのだと、なんとなく自覚を持っていたから、誰かに云える筈もない。

彼は、この国の軍師であり、本来ならば手の届かない存在である空の上の人。人と呼ぶには役不足で、彼は仙人でもあった。私はと云えば、城の侍女と、今のように食事を運び、下回りを世話をする、ただの人間。そんな私が、おこがましくも太公望という導士を一目見てからというもの、すっかり心を奪われてしまったのだ。身分違いに、報われるとは思わず、心の内で静かに育てていた心を、あろうことに彼の方から暴いてくれた。叶わないと思っていたことが、呆気なく叶った時、人は自分でも理解外の行動を起こせてしまうらしい。

(……レースを見ても、思い出してしまうなんて…変態だわ)

少年のようでありながらも、とっくに青年を超していたと打ち明けられた時には驚きが勝って、何も返せなかったけれども、それ以上に吐露された心内の方が圧倒的だった。彼の背中で存在感を主張していたものがあって、気持ちを通じ合わせたのなら、こんな機会は二度と来ないかもしれない。他の者が来る恐れなどその時に、考えられたのなら、今、背中の痛みが指先にまで伝染したりはしなかっただろう。

「こちらにも頂けぬか」
「はい」

まさに、噂をすれば、なんとやらだ。内心心臓の働きを止めてしまいそうになる程に締め付けてしまった、緊張感の紐を解こうと平常心の下で葛藤する。けれども、複雑に絡み合ったそれは、力のあまりはいらない指先では無駄だった。上座に居る彼へと向かい、心中悟られないように近づいて行く。その間も背中は痛みでちくちくとするし、震えの止まらない腕は、細身でありながらも逞しかった彼の背中の感覚を思い出して強ばった。

昨夜、充分すぎるくらいに見た、彼の碧眼は陽の光でまた別の一面を見せ、輝く。夜の鋭さを孕んだ、背筋を這う刺激の無い、毒気の抜かれた瞳。本来の彼はどちらなのだろう、と真摯に悩みだしそうになり、慌てて手で払う。熱の治まりきかない内から、給仕という仕事を与えられた所為で、一々心臓が痛んだ。半日も経たない間の出来事だと云うのに、近づく彼の顔は涼し気で、悔しくなった。

(普段は庭園とか、掃除とかばかりで、給仕なんて滅多に回ってこないのに…)

普段から、要領悪く、その上運もあまり良くない方だと知っていたとしても、何もこんな時に発揮されなくてもいいのに、と思う。きっと、昨夜のことで一生分の幸福を使い果たしてしまったのだろう。これから見舞われる災厄を思い、身が軋んだ。

「軍師様、どうぞ」
「…………」

腕を伸ばして、フキンの上にお皿を乗せると、彼との距離はうんと近くなる。軍師、と呼ぶのは公の場で、師叔は身の回りの世話をしている間に、名前は、昨夜が初めてだった。軍師、という名前を舌でなぞってみると、おかしなことに何百回呼んだ筈なのに、違和感が胸をくすぐる。なるべく丁寧に、と置いた料理を彼は黙って見て、いつもの「ありがとう」がないことに気付く。もしかして、粗相をしてしまったのだろうか、なにか彼にとって気に食わないものがあったのだろうと、波立つ心中が周りにも広がって行き、震える指先。

「あ、の……お気に召さないものでも…」

全身に伝染していく震えは、ついに声までもを弱々しく響かせる。軍師、と呼んだ彼は、相変わらず顔色ひとつ、変化させずに私を見上げた。本能的に見てはいけないような、逃奔したくなる身体を、尽きてしまいそうな気力で留まり言葉を待った。彼は、緩やかに唇を広げ、私に向かって手をひらりひらりと、誘う。その姿はもう昼間の彼ではなくて、昨夜の、欲に深く沈んだ男が垣間見え、引きずり落とそうとしているかのようだった。こんな時に、と尻目で周りを観察するけれども、目の前の食事に夢中になっていて、給仕の一々なんて気にもとめないだろう様子に、軍師の誘いに乗った。

「…なんでしょうか」

接近する度に、胸は痛みだして、もともと痛んでいた腰や背中の比ではないくらいに、脈を打つ。彼は、にたり、と笑い唇を耳元へ寄せてきて、私は間を取る暇もない程、硬直していた為に言葉を取りこぼすことはなかった。

「昨夜の、ように、太公望と」
「………!」

呼ばねば、返答はしない、と暗に提示した要求に、全身が軋むような鈍い音が外耳道の奥から響く。喜怒哀楽を最小現に表すよう、訓練された侍女達のひとりだったから、機微の変化は殆どみられず、普段より少し広くなった白目が乾く感覚がした。そのまま、彼へと視線を動かすと、眼球の奥から、鋭利な光が、私を刺そうと狙いを定めているようだった。苦しくて、背中の痛みは昨夜の再現をしようと、一層酷くなり、それを引き起こした共犯者は、青年の無垢さとは無縁な顔をする。近場の席に腰掛けていた、美形で城内を色めき立たせている、楊ゼンと呼ばれる男が「ゴホゴホ」とわざとらしく、咳払いをした。

(強く惹かれたのはそれが罪だと知っていたから?)

(20151205)(×)(それでも、惹かれるのを止められない)