伏犠と名乗った男は、突如として現れた。なんの変哲のない、普段と変わり映えのしなかった壁から、個体が図々しくも浮き上がって、日常に色をつけた。その時には、女らしく「きゃあ」だの叫ぶような性格ではなかったからか、咄嗟に出た言葉は「なんだこれ」だった。全身黒で覆い尽くされた、物だと思った形は、次第に人を成して、出来上がった頃には自身よりも低さを持ち、もともとあまり抱いていない恐怖心を更に減退させた。頭巾のように見える、うねりくねった布が、おもむろに背後へ落ちていき、現した顔は、随分と幼く見える男だった。

「我が名は伏犠、おぬしの名は?」

容姿とは裏腹に、男は現代人では死語のような、典型的な翁言葉を使ったため、不意を突かれて間抜けな声を上げてしまう。

「え、あ…
、か。しばらく世話になる。宜しくのう」

反射的に返事を返してしまったけれども、この場合はもっと、別の言葉があるだろうに、色をつけられた今日という日に気をとられて、云い返すことは出来なかった。伏犠と云う男の、当初纏っていた畏怖は、一時のものでしかなく、片側の眼下に出来ている色素沈着だけが存在感を誇示しているようで、ほとんどが陽気な男だった。

「見かけに気をとられるのは、爪が甘い証拠だぞ」少年だと軽く見積もった眼力を、伏犠は、ケタケタ笑いを上げながら自尊心をやんわりと折る。その笑い方は、どう見ても少年のものなのに、彼は得意げに私を見た。話を聞くにつれて、彼が人の形をしているだけで、人ではないという、にわかには信じがたい言葉を、平然と紡ぐものだから、冷静さを信条にしていたのに、思い切り吹き出してしまう。伏犠は、些か害したように眉を寄せたが、それも予想の範疇であるのか、それとも何度も経験したからか、慣れた様子で「だが、事実なのだよ」と呟いた。

「伏犠、は…いつまで此処にいるの?」

食べ物も、飲み物も、生きとし生けるものとしての、摂理である栄養補給は、全くも必要ないことを知り、やっとのこと彼が生物ではないことを知らされる。はじめは、作り話に真実味を肉付けたくて、やせ我慢をしているだけかと思ったのに、始終観察していて、彼が何かを口にするということがなく、作り話ではないという実感を持った。ただ、必要ないだけで、食べたくなる時もあるらしく、食事を取っている横で確認をとらずに、好きにつまみ食いを働くことはあったが。そういう時に限って、伏犠という男は得意げな顔で、空間を裂き、逃げ込む術を発揮させるのだから、たちが悪い。

問いかけた疑問に、伏犠は聞き逃しをする術を前面に出していたが、私が折れないとわかると、仕方なしと云った表情を見せた。

「わしが、この世と決別すると感じた時、かのう」

それは、いつになるのか、いつまで続けるのか、彼は何も云わない。時々見せる、陽気さとは無縁な黒さが、推量を隠して、浅はかな固まりの私には、分からない。まるで延々と繰り返す、人々の流れから、失意を感じているように思えて、自身へ向けられたわけでもないのに、気恥ずかしさを感じた。褒められた生き方をしてこなかったから、彼の云う、一々は私には刺激が強くて、時折、苛立った。

「おぬしは無口な方だな」
沈黙が重さを持って、彼にのしかかっているのか、気にも止めなかった私に放つ、無口、とはいい言葉ではない気が強かったから、ささくれ立ってしまった心をそのままにした。

「ずっと一人だったから」
「そうか」

訪ねてきたのは男の方だったのに、関心を寄せるような答えを返すでもなく、淡々と、呟く。普通は、何かを察して謝りをいれるのに、男はそれにウンザリしていると云う私の、心を読み取ったように、思えて、彼を見たが、彼は目の前にある携帯を不思議そうに眺めていただけだった。

「携帯がそんなに珍しいの?」

伏犠が目に見えて関心を、出している姿は滅多になく、あまりの珍しさに、つられてそれを見る。「うむ」と短く返答をした伏犠は、時々私がそれで、見えない相手と話している様子を思い出しているようで、大きなグローヴで突いた。

「こんな小さな箱で、世界情勢、遠征の者に息災を確かめられるなど、わしでも想定できんかったのう」

わし、でも、と呟く彼は自分のこととなると、雲隠れするかのように、情報を遮断してしまう。彼がやってきてから、ひと月経とうとしているのに、知ることと云えば、だいぶ昔の中国で軍師をしていたこと、人ならざるものということと、少年の顔をした翁ということくらい。(そして変わり者)だからか、時折彼が呟く、自身の片鱗を言葉にする度に、つじつまを合わせようと、秘密裏にしてみるもうまくはいかない。何せ、相手は切れ味抜群の、国を動かしていた軍師が相手なのだから、敵うはずも無く、無駄に終わってしまった。

「未来予知が出来るとか?」
「ちと、違うのう」
「じゃあ…伏犠は何を見るの?」
「秘密」

小さな箱を突いていた指が、自身の唇に触れて、先を求めることへの牽制をされてしまう。こういう時の、彼は、私の少ない経験をも、飲み込むように達観した様子を見せる。もどかしいようで、お腹の中心が渦を巻いて、云い表せられないような感情下に置かれる身を、伏犠は容易く受け止める。

「食えない男」

あまりの簡単さに、腹を立てて、仕返しとばかりに呟いた言葉は、子供そのもので云った側から後悔した。それに対して伏犠は、思った通り、覆い隠すようでいて何処か突き放しているような、冷たさを間に挟んだ顔で「確かに」と同意した。

(触れられない温度を求めていた)

(20160104)(×)(触れようとすると、らしくない顔で逃げるあなた)