忍び込んだ、部屋の片隅には見慣れた背中が丸くなっていた。そんな格好をしなくても十分な広さを与えられた場は、彼があと何十人、入っても余裕があった。それなのにそれは垂れ下がる布の間を心もとなく存在する。後ろ手で扉を閉めて、気付かれないようにとひっそりとした動作で行動を起こすけれど、彼ならばとっくに気付いているだろうし、いつもならばとっくに莫迦にしたように呆れ声で言葉を飛ばす。

それがないのは彼が余裕がないから、理由を差し出すにしても、少し憚られる事柄に出入り口から立ち止まったまま進めずにその背中を眺めた。何て声をかけたらいいのだろう。私の一声で何か劇的な変化を起こせる気はしなくて、喉が詰まる。頭の善い楊ゼンなら、周りを明るくする天化なら、主人に平然と野次を飛ばせる四不象なら、と他人の良さを羨みだしたって、彼の傍に今居るのは自分な訳であって、彼らじゃない。早々、現実逃避する楽観的な頭に叱りを入れても、うまい台詞のひとつも浮かんでこないのだから世話がない。

(だからと云って一度入ったところから出るのも、気が引ける…)

もう一度背中を見てしまったら、なかったことには出来ない。
普段は呆れるくらいに陽気な人が身じろぎひとつしないで、うずくまっているのを見ているのは、辛かった。理由はそれだけ、他になにもない。

(何も、ないんだから)

言い訳がましさがにじみ出る、言葉がすらすらと頭の中から溢れて、いっぱいにしてくれる。太公望は、私にとって兄のような存在で、時々グルになって悪事を働く仲間だったりして、何度も霊獣を病魔に追い込んだことか、数えきれない程。傍に居すぎて、分からなくなって、こうして見せた、彼の闇は、私の手に余るものだった。理解していたつもりで、本当は表面だけだったのだと知らされた時の、絶望感は初めて味わうもの。目に見えるようになってから、知るなんて、浅はかな思考を潰したい心持ちだった。

「………雲しょ…ビーナスさん達が心配している、よ」

男勢が何人も束になって、彼女を止めている間に、此処にやってきた私は何とか、場違いの言葉で道化を演じる。悪戯仲間として、つるんでいる時の彼らしさの、片鱗さえ掴めずに、返って来る反応を気にした。すっかり、小さくなった背中はもぞりとして、今にも窓掛けの中へと逃げて行きそうだ。こんなに広さを誇った部屋であっても、何度か足を進めれば、彼の背中に触れられる、と分かっていても、近づこうとは思えず、一定の距離間を保っていた。もしかしたら、柄にもなく、恐怖心が心中に芽生えたのかもしれない。

「……おぬしは、変わらぬ、のう」

逃げの体勢を取っていた背中は、丸めるのをやめて、白い帽子が彼の動きに合わせて、震動する。変わらない、彼にとって私の不変さは、どういう位置なのか、良し悪しを決められないまま、返答に困った。布の中へと、逃亡したかった、彼はひとりで唸る。「わし、らしからぬ、態度だのう」などと云って、萎めた背中を張った。大ぶりな帽子の角がゆらゆら、彼の決心を優柔不断さで惑わそうとしているように見えて、すこし、近づいた。絨毯の弾力が、足裏に感じられて、気持ちがいい。恐怖心が払拭されたわけでもないのに、距離を詰めることを、赦された気分になって、図々しくも腕を伸ばせば、直ぐに太公望に触れられる距離まで近づいた。(ビーナスさんが見たら、発狂して、私を突き飛ばすに決まってる)

「私は、いつでも、太公望の味方だもん。当たり前じゃん」

これから何度、彼の薄暗さを見るか、それを受け止められる度量も、足りない癖に、口は勝手に嘯きのように云う。けれども、そうでありたいと思うのは、本心で、喩えと予測不可能な未来を測るのは、止そうと思う。太公望は少しだけ、頭を傾けて、暗幕のかかった窓の向こう側の、空を見るような動作をした。

「…ふふ、おぬしらしい」

(伸ばした手が空を切るのを、恐れていた。)

(20151126)(×)(恐れからは、何も生まれないと云ってくれたの)