( 40:楽園に君がいてもいなくても )

すこしばかり振り返りすぎて、とうとう白昼夢を見るまでになったのか。はそう思った。ここはロンドン郊外の、しがないクリーニング店で、魔法使いが御用達になるような魅力は、良く見積もったとしてもない。イギリスの気候が上着一枚では太刀打ち出来なくても、大振りな外套を身に纏うのは、マグルの中でいうと『変わり者』、魔法族からすれば『同族』しかいない。見慣れない洋装を、マグル街の店でなんとか出来るとは到底思えなかった。そこで魔法使いが好む、仕上がりが提供できるのは、ダイアゴン横丁に建ち並ぶ店々で、そこへ行けばいくらでもある筈だ。

次第に明順応し、輪郭のみでしか語らなかったそれは、じんわりと馴染み始める。
叱りつける声は空耳だ、線をなぞるだけならば、夢うつつ、も頷けたのに顔の造形まで分かると、その線は消失した。額から眉間を流れる深い川、なぞっていくと立派な鉤鼻が、表情の要となっているようだ。眉は吊りあがり、細められた双眸には隠しようもない瞳孔が、鋭く光を湛えている。

「……あ……」
「君は、客人に対していつもそうなのかね」

されど半年、けれどその時間が酷く昔のように思えてならない。べたついたように頭皮から頬にかかる、やや長い黒髪、皮肉ぶる唇の歪みや、険しい造りをしておきながら、声色はとりわけて優しく響く。怒りを含んでいないのは、はじめから分かっていることだった。沈黙を漂わせてしまったのは、舌が縺れて、うまく言葉を発音できないだけだった。

「……いえ…でも……なぜ…ここに、」

言葉を覚えたばかりの幼子さながら、とりとめのない疑問ばかりが浮かび、その都度眼の前にした男の頬が軽く痙攣する。

「…理解力は悪くなかったと、記憶しているが。聞く限り、随分落ち込んだようだ」

まるで昨日ごとのような身軽さに、些か驚きながら、男を凝視してしまうと、若干の居心地を悪くさせてしまう。次に揺れた肩から流れ落ちる外套は、男の持つ独特の色によく馴染んでいて、間近にあるというのもまた、信じられなかった。床をずるほど長尺の外套が、翻ったまま、こちらを向かなかったそれが、カウンター越しにあるのだ。何度息がつまったことか、は呑むのを忘れた唾液を、必死で呑み下した。

「ちがっ…います…だって、ここは…クリーニング店です」
「ああ。看板にはそう描かれている」

さも当然の言葉を、詰らずに返されることにも、憮然とする。しだれた前髪の間の双眸は、ただ真っ直ぐにを見つめていた。あの日を堺に、曖昧だった線はくっきりと描かれた筈で、男は滞りなく平常心を手に入れたのだ。そして、それはにも云えた。詰めの甘さが露見してしまうまでは。マグル界隈では特別珍しくもない車が、窓枠の向こう側で、喧しく通り過ぎた。

セブルス・スネイプという男が、姿を現す可能性はないと思っていた。あれほど男の残像を、必死で照らし合わせようとしていた人物と、心持が同じとは思えない。なのに、なぜ。待ち望んでいた出来事が、眼の前で繰り広げられると、途端に諦観したことのように気が抜ける。直したばかりの服を投げつけて、感情の赴くままに、動きかけて、力の弱い指先が繊維を掴む。長いこと内側でくすぶっていた不実が、弾けて血管に流れ込むのを、は黙って享受した。

「…もしかして、からかっているんですか…?」

無骨で無愛想な男がする行為ではないと、憤慨を込めながら、男の喉仏が上下するのを見つめる。襟のつまりがない、さらけ出されたそれは、見たことがなかった。顔色から落ちた青々しい血管が喉を通って、隠された鎖骨へと伸びていく。滅多に開かれない為か、より白く、青く、黒に映える色味が生々しい。

「なにを、」

すると、セブルス・スネイプの顔をした男は狼狽してみせて、強固だと信じて疑わない黒点から溢れだした。ああ、やっぱり、あの人は心を隠すのがとても上手いひとだったのだから、この一言からボロを出すなんて。逢いに来てくれた、と一瞬でも思ってしまった自分が腹立たしかった。どんなに否定しようとも、期待してしまう自身の卑しさに、全てが赴くのを感じる。は床に寝そべっている杖を、一瞥する。

「……君は何か勘違いをしている」

大振りの黒衣が微かに揺らいで、額には男の気難しさが、より顕著に現われた。
窓から入り込む光が強まり、男を益々不明瞭な存在に際立てて、所在を探る行為が一層難しく思えた。杖さえあれば、と魔法使いの本能が呼び醒ませてくれるが、めっきり魔力に頼らなくなった生活では、相手がなにものであっても勝算は見込めそうにない。

「何を勘違いするっていうんです…?」
「…
「……っ…あの人は私を、そうは呼びません…!」

何の意図を持ち、ほぼ『魔力を持たない者』と同じような人間の元に現われたのか、真意は掴めないが、は苛立っていた。それは、セブルス・スネイプの為りをした男の薄い唇から、溢れる自分の名前に、不覚にも心臓が掴まれた、だなんて。呼ばれた試しのない自分を現すそれは、まるで、自分のものであってそうではない、睦言を呟かれたような、淫靡な響きに聴こえただなんて、思いたくはなかった。

荒れる内側を知ってか知らずか、男は再び『』と呟くと、当の本人は入れすぎた肩の力が途端に弱めてしまう。それ以上は駄目だった。

「これ以上苦しめないでください…わたし…」

がたがたと様々な思惑が崩れるのが分かる。
手にしようとした杖は、最早棒切れのような扱いで、足先が勢いよく蹴飛ばしてしまうし、直した洋服は埃の中へすっかり埋まって、持ち込まれた時よりも重ねて汚してしまう。不意をつかれ、身体中を巡る酸素が脳を上手く働かせにやってきてくれない。全てが、息をするのに精一杯になった。男は相も変わらず狼狽を溢し続けて、自身の唇に細く、緻密そうな指先で覆い隠した。

「我輩は君を、自由にした…それは、私見だったのか?」
「おかしいでしょう…?」
「…………」
「……たったひととき…それだけで、こんなにもずっと……貴方を」

想ってしまった、その先からは云えなかった。断ち切るつもりだった言葉が、曖昧で鋭利さにかけていたのだろうか。自由が本来の役割を為さずに、だからと云って交わることもなく、経過していく時間が身体中を縛ってしまっていた。は教師だった男の『自由』という言葉に『不自由』を見いだして、ずっと過ごしていた。

ツンと鼻を縛る痛みを表に出せず、下唇を噛みしめることで、我慢を強いると男の目蓋がやや持ち上げられた。それは全て、一瞬のことだった。セブルス・スネイプの風貌を模した男の肩口が、目蓋にぶつかって痛いだとか、後頭部を前のめりにさせる力の先は、男の腕だとか。衣服に押し付けられた鼻腔を、くすぐる匂いに懐旧の想いと苦しさから、真似ごとの塊ではないと告げているようだった。

「……すまない…」
「………っ」

搔き消えるかと思われた言葉は、しかとの耳に残った。『このまま、』云われずとも、最早からは剥離する考えは浮かばないのに、それは酷く不安定に響く。スネイプは、身じろぎひとつしない小さな身体を腕に留めながら、沈黙を一時使ったあと、躊躇いがちにもに言葉を溢していった。

「たったひととき…君がそう云ったあの空間は我輩にとっても特別、区分けされる出来事だった。…ああ、はじめからではない…それは同じ想いだろう。我輩の持つ過去の畏れが…君から眼を背け、遠ざけ、定常に回帰しようとしたことで、君をより深く、傷つけてしまった」

後頭部を滑る優しさは、何度も上下しての深い処まで沁みていくようだった。
『…そんなこと…』反論しようとした唇は、固い生地に止められて、続けられない。滞りはいつしか薄まり、情けなさが浮き彫りにされたのは、この後に及んで本心を隠そうとしたからだ。『そんなことない』わけがなかったのに。

は、見上げる動作も困難なほど、強く押し留められる胸の中で、自分以外の熱が勢いよく鳴っているのを感じて、頬が熱くなった。その上、息継ぎするのも一苦労だから、赤らみ顔は一層強く表に出た。

「双方のためだと嘯きながら、混乱を招いたのは、己の畏れに屈した結果だ」

すると、スネイプはもう一度『すまない』と唇を歪めた。
窓の反射から薄ぼんやりとした背中を、これほどに心もとなく、切なく見たことがなかった。がそう感じるほど、スネイプが裏面をひっくり返して、さらけ出している証に、はカウンターについたままの手のひらを、恐る恐る、黒衣を手繰り寄せる。その気配に猫背が、ひくりと震えたが、それからは落ち着いたように丸くなる。表情を読みきれない、少しの不満をいとも簡単に、掻っ攫ってしまう男が、愛おしくて仕方なかった。

「……せんせい…」
「、もう君の先生でも、教授でもないのだがな…」
「あっ…ごめんなさい…」

の頭上でふ、と笑いを落としたことで、それが彼なりの洒落だと知るが、反応できる力は残っていない。それよりも、スネイプの溢す言葉の全てが、自分へ向けられている方が重くて、信じられなかった。

「…すきです」

薬品の匂いを肺いっぱいにつめて、心臓が顔になったのではないかと思うほど、熱が集中する。全身を巻き込んだ黒衣の中で、それに吸い込まれそうな言葉を、スネイプの力強さによって受け止められたと分かる。色々なものが混じる背景で、掻き消された言葉を、形にできたのと過去の波が呼び起こされて、黒衣に雫がしみ込む。何度、捨ててしまおうと考えただろう。何度も何度も、逡巡させては諦めて箱に鍵をかけたりしたそれを、やっとの思いで口にできて、受け止めて貰えた。もうそれだけで十分だ、と胸にうずくまれば、呆気なく思考を絡め取る男は、やや不服そうに鉤鼻をの肩先に埋めた。

「……君は、我輩の答えを聞いてないのだが…それでいいのかね、?」

実直で通る男から色を感じる上に、鉤鼻から漏れる息の熱さを意識して、眩暈がした。
振り出しに戻る言語能力に呆れられていないか、と思いながらも、これ以上の回復は見込めそうにない。勢いで口を開いたようなものだから、考えようもなかった。

「よ、くない…ですっ…が、これ以上、求めたら…駄目な気がして…」
「実に君らしいな」

スネイプは、そう云いながら肩口で笑うと、薄い唇は輪郭をなぞり、耳朶へと這いだした。素通しの窓を隔てた道路側から見たとしても、思うだろう。昼間の行動からかけ離れた非日常の雰囲気が、ふたりの間に漂い出していることを、はいっそのこと『錯乱の呪文』か『失神の呪文』にでもかけてくれないかと願った。こんな甘いスネイプを、は知らない。それが応えであると、なんとなく分かったけれども、求めたからにはほしくなる。そう云えば、スネイプはくれるだろうか。

「……

既に決まっている応えを、なかなか云わずに徘徊する唇は、愛おしさからくるものなのか、本来の性格上の焦らしなのか、見知らぬ部分に理解は追いつかなかった。羽ペンでくすぐられているような、歯がゆさに強まる指先を、スネイプの細長い指先が絡め取り、その腹で関節を撫でられる。もう耐えられそうになかった。思わず『教授』と漏らしてしまうと、もう一度戻ってきた唇が、耳朶をやんわり含んで、叱咤した。