( 28:視線の先の先 )

黒衣の男を頼りない光の下で探すがどうにも景色と同化してしまっては見つけられない。もしくはこの部屋に居ないのだろう、という考えが彼女には全く思いつかなかった。勝手に中へ足を踏み込めば最後、男への弁解を考える事はしない。言い訳のひとつもつこうものなら、益々風当たりが強くなり死に物狂いで取ることが出来た教科を剥奪する為に動く事も校内一陰湿な男であればやりかねなかった。それを抜いたとしても彼女は足を暗闇から戻すことはせず、冷たさと静けさで傷口が痛むのも厭わず闇の中に微かに洩れた光に手が触れた。それは小さく軋み、やがて小さかった光の線は急激に広がった。

「…きょ、じゅ」

下ろした杖の先の光は役目を終え大きな光に飲み込まれていった。それを黒衣の男が煩わしそうに視線を向けた後、ゆるりと少女に顔を向けた。実験室の隣が男の寝室になっているとは知る由もない少女は驚きと恥ずかしさと、罪悪感で心を満たした。男はそれが夏の間片時も離れず共に過ごした生徒だと知ると一層眉間の皺を濃くした。それを見つけた少女は些か衝撃を受けたが、新学期が始まってからの男の態度を遡れば線の一本くらい心の傷にもならなかった。

黒衣の服から洩れる光以上の白さを持つ男の肌からは醜く赤が流れていた。傍から見ればクロークがそれを吸い取って黒に命を吹き込んでいるようにも見える。まさにそう感じた少女は顔を青くし、男の開きかけた唇から洩れる言葉に耳を貸さず腕を掴んだ。今までの少女の行動を思い出せばこんな風に強気に出てくる事は無かった、とスネイプはずるずるになった傷口と少女を交互に見た。

「、すみません…私の不注意でこう、なってしまった…のですね」

誰が、貴様ごときの為に傷を負うようなことを、と男は云おうと思った。
思っていた筈だった。しかしそれは刹那のことで、直ぐに言葉が暗闇と同化した。冷気が包んでいる部屋は確かに寒気を呼ぶが、目の前で身体を小刻みに振るわせるのはそれと別だと悟ることが出来る。口先まで頭が出た言葉はひゅんとすっこんだ。

「貴様の所為でこうなったのではない」

当たり前のように言葉を選びだした口元は少女の無実を訴えた。
このようなことを云ったところで少女の震えや、少女が落とした涙の量が減るでもなくなるでもないというのに。それでも少女は内心とても驚いた。半刻前までは自身に対して冷淡という言葉がしっくりくる扱いや言動をされていたのだ。そんな男がだ、自身の所為で怪我を負い、それを暗闇の中一人で治療しようと眉間に苛立ちを溜めていたのに、ぶっきらぼうではあるが言葉の棘を抜いてみせた。それだけで溢れそうになっていた涙は一瞬に体内へ引っ込んでいったし、男もそんな少女に対してフン、と鼻を鳴らしてみせるも悪い気はしないのだ。

震えていた少女と男の立場は一転し、強気に出た。
男の腕を無理やり掴み上げると重たい布を払い落とした。そこには思った以上の傷が眼下に広がり、同時にこういうものに免疫のない一般の学生魔法見習いのは吐き気を催す。しかし、それを男に伝えるには未だ新鮮味の残る痛みに尻込みして喉を鳴らした。男は知ってか知らずか、白いブラウスから覗く胸元の些か上、喉元を一瞥し感情を読み取ろうとするが真一文字に描かれた唇は魚のように乞おうとはしなかった。

「………」
「………」

どちらがどちらの言葉にせよ、互いに何か意味を持つことを云おうとは思わずそしてその沈黙は酷く落ち着くものだと思った。垂れた滴を自身の袖で拭い、呪文を唱え、唯一の音を男は眉間のシワを深く濃くしながらも聞いていた。器用な方ではないが巻きつけた包帯の緩みやよれに感情を露にしかけ、男自身内心驚く。単純な呪術もまともに操れぬ生徒を嘲笑うのが常の口元は今別の意味合いでシワを作った。頭のネジも緩んでいるのではないか、と暴言を吐くところを蝙蝠のようなスネイプは震える唇で呟いた。

「………、へたくそだな」

傷口を見ることでいっぱいになっていたは初めてそこで気づく。耳元で呟かれた言葉は心を揺さぶるほど近く、遠ざけられることに慣れてしまっていた少女の身体は順応することが出来ず何もかもそっちのけで脈を大きく打った。今にもバケツをひっくり返しそうだった想いは男の一押しで勢いよく倒れた。床を踊り滑っていく感情を制御出来ず少女は鼻先に居る男のクロークを引っ張った。痩躯ではあるが少女よりはるかに重量のある男の身体が突然のアクションに対応できず滑る。音も無く、滑っていく大柄な男を少女は何の苦もないという思いで中へ中へと引き合う。少女の両手は男の胸をいっぱいに受け止めた。何のためらいもなく小さい胸へ吸い込まれていく男の身体は状況判断が鈍った頭のせいで石のように硬かった。

「何のつもりだ、」

、と男の唇が微かに動く。
暗がりの中でそれに気づくには少女は胸に顔を押し付けていたし、男も喉を鳴らすだけで声にはならなかった。ひくりと跳ねた小さな身体は男の言葉を身に染み込ませるだけで答えを口にはしない。この男ならば少女を突き放す言葉は幾らでもあった筈で、既に脳内ではさまざまな単語が言葉を作っていくというのに男が口にしたのは同じものだった。

「何の…」
「どんな!」
「……・・・」
「どんな罰もうけます…だからっ……今だけ、は…」

掻き消えそうな男の名を少女は云う。今度は男が震える番だった。それは少女に対しての思い、というよりもはるか昔に感じた赤い感情が蓋の隙間から洩れたからだ。自身をセブルス、と呼び全てが美しさで出来ていた赤毛の少女はもう居ない。もう居ない。