ぎしりとスプリングの軋みで眼を覚ました男は真っ先に入ってきたものに驚愕した。彼にしては珍しい行為であり、不愉快な感情以外顔に出ないと云うのに今の彼はまさに誰が見ても驚いていると云えた。元々レム睡眠状態が大半の彼にとって朝の目覚めは最低なものだったが、この状況下と比べてみたらその方がましだと思えた。布団を蹴り飛ばし、背に壁がつく処まで下がれば少しは状況を上手く整理出来るかと彼は踏んだのだが、一層状況を悪くするだけで彼の頭の中では複数の事が渦を巻いて事欠かせなかった。
思わず自身の服を握り締めるも、それが着衣しているものと知り安堵を覚える。
自身に染み付いた匂い以外のものが布団の中で蹲っているのだと、スネイプは心臓が止まる思いで嗅覚に感知させた。目の前で小さな山を作っているものが誰かなんて確かめずとも男は認知していた。ほの暗い地下室に近づこうとする人間はそうそう居る筈もなく、ましてや男の性分を目の当たりにした真人間ならば尚更だ。それを考慮すれば、入れたのは一人しか有りはしないのだから確認する必要などない。しかし、毛布の向こうの少女が素肌を晒していたら、と万が一の可能性に気が気ではなかった。
蝶が舞うように男の腕から滑り落ちる白い螺旋と、靄がかかったような残像に男の苛立ちと戸惑いは頂点に達しようとしている。そんな男の内心などそっちのけで毛布に包まった少女らしき物体は静かに生を男に知らせていた。ほどけた包帯に視線を落とすも、気になるのは上下する縮絨(しゅくじゅう)だけ。少女が顔を出してくれたら、とも思ったが直ぐに否定した。もしも、あられもない姿の少女がそれから出てきたとして、男と少女の関係は途端に情け容赦なく崩れていくのを耐えられるとは思えなかった。このままわからぬまま記憶を改ざんし、何事もなく消え去ればいいのだ。
(そうすれば、)
そうすれば、と頭に浮かばせた案はあっという間に散った。
自身でも理解出来ない。一瞬でも少女に温かさと手を伸ばしたいという欲が出たら最後もうそれは避けようがない事実として胸の片隅に寄生する。何故、というおもいは手の届く位置に転がっているというのに、容易なことを迷路に放り込んで迷宮入りにさせてしまうのは男の悪い癖だ、と奥歯をギリギリ噛み締めていても、やはりテーブルの上に乗せておいたのであろう自身の杖を取ろうとは思わなかった。
闇の中で必死に感情を堪え、男の手を取り魔法をかけた少女は顔をあげ長い睫毛は小刻みに振動していた。夜目がきくとは露にも思わぬ少女は視線でスネイプに好意を伝え、全身で体当たりしてきた彼女がうずめる胸あたりには無機質な布でさえ温度をもった。そしてそのまま崩れゆく身体と表情に、男は撃たれた。背中にまでまわる小さな掌や細い腕、感情の赴くままに細い身体を抱きしめ返したら知らず知らずのうちに繊細になってしまった糸が切れてしまいそうで、何より裏切りになることが怖かった。
「愚かしい、とはこのことだな」
重々しい存在を背に感じさせながら記憶に手を入れてみても引き抜かれるのは何故か眩しかった幼少期の自身の姿。まっすぐに彼女だけを見ていた自分の透明な心。苛立つ、スネイプは脂気の多い頭皮に指の腹を何度も滑らせて冷静な自身を取り戻そうとしてみるも浮かぶのは頭皮の残り。洗髪をしたのは随分前のような気がする。生徒から飛ばされる視線がいいものではないと知りつつも直そうとは全く思わなかったのだが目の前の状況では何故か気に留めてしまう。
何故か、愚問であろう問いに男は答えようとはしなかった。
部屋に不釣合いな白いシーツに細い糸が何本も散らばって胸に刺さる。
(リリー、君はなんと云うのだろう)
永久に、と誓った不屈の心臓が変わる様を見て悲しむのだろうか。否、彼女は知らないのだ。この感情を。悲しむということはないだろう。痛みをもっと与えてくれればいい。身侭に破ろうとしている身体に十字架を刺してくれたらいい。使命を与え、そこから逃げ出さないように、愛すべき少女に全てを差し出せるように。小さな包みが動き、スネイプの心を確実に揺さぶる。小さく縋るように。
「………す、ね……ぷ……きょ…じゅ…」
微かに洩れた言葉で感じた確信。彼女だ。眼の廻る男の背中を無機質なそれらは強く押す。早くしておしまいなさい。破れぬと決めたのだろう、と云う。深い緑色の双眸がまっすぐにスネイプを射抜く。そこには生命の色は最早なく、ただ深い闇に落ちているだけ。男のことを理解出来ず、小さな赤子を守るために光を失った。
(我輩の名を呼ぶな)
押されるままに小さな塊の向こうにある覚悟へ手を伸ばす。
もう失うわけにはいかないのだ。刹那でも感じた愛おしさが体温を失っていく様を目の当たりにはしたくはない。馴染みのあるそれは酷く冷え切って、益々男を冷静にさせてくれる。ああ何てことをしてくれたのだろうと心の角で悪態をつく。ついさっきまではそうなりたいと望んでいたのに。
腕から伸びる白い線を辿ると丁度少女まで繋がりを持っていた。天秤にかけられた片方が重みを持つ。抵抗をしてみせるそれにスネイプは鼻で笑った。どうせ叶いはしないのだ。自身を変えたつもりでいた、がそれは幻想に近かった。僕と称していた頃と何も、変わってはいなかった。