( 30:この花なら誰のため )

医務室から戻ってきたは頭を抱えた。治癒を推奨する場へ行ったにも関わらず、床に崩れる身体に周りは不審に思うだろう。しかし今彼女が蹲っているところは誰の目にも留まらない薄暗い廊下の影。まるで誰かを探しているように、縋りたい心持ちを表しているようだった。あの日地下へ向かったは開かない扉の前で立ち往生し、数刻の間凍える身体と格闘していたがそれでも意中の人は現れなかった。息苦しさを吐露することも出来ないまま寮へ戻ったを見た友人達は口を揃えて云った。

「顔色が悪いわ!」
「あの陰険教師の所為ね!」

否定をしようにもすっかり凍えた唇には辛く、与えられた急な温めに馴染むまでしばしかかった。肩の怪我はジワジワとを蝕むような感覚さえするのに、男への想いは一層膨らむばかりだった。友人がどんな悪態を耳元で吐き捨てていようが一向に関係なかった。今はただ肩の痛みと、あの人のことを考えていたかった。

「人の邪魔をするのが相変わらず得意のようですな、Ms.

絶えかねた少女の身体は寒さで足を縺れさせ、落ちる身体を強い手が引き上げる。反射で身体が大きく跳ね、思わず振り向けば一刻前まで落ちた塵のような扱いをした男が睨みをきかせていた。それとは対照的に強く掴まれた腕がまるで愛撫のようで心臓はどきりとする。名前を呼びたくなり、音を出そうとすれば冷たさでかじかんでしまった舌は上手く発音できずに舌を噛んでしまった。

「…す、ねいぷ教授」
「何かな、その幽霊でも見たかのような顔は、?」
「い、え…すみません」

皮膚に残る強さは直ぐに離れていき、大きな鷲鼻は盛大に声を発した。遠ざかる痩躯な男のローブに手を伸ばしかけて、此処が大広間だということに気づき手を下ろした。あの夏のように男の部屋ではないのだ。触れても赦されそうで、赦されぬ糸が張られていた。触れれば皮膚に一本線を作り鮮血を流し、目じりには涙が溜まる。いっそのこと少女の心も留まることなく零れ落ちたなら良かった。

朝から雪遊びをし、男の姿を見てしまったせいか、何処に行っても気持ちは晴れることなく真上に広がる曇り空と意気投合していた。ローブに押しつぶされてそのまま雪と同化し消えてしまえたらどんなに楽だったか。朝食で見たカボチャジュースが勝手に浮かんでは消えて、胃の中もカボチャ色に染まっているのではないかという錯覚をする。漆黒色と交えたかと思えば直ぐに飲み込まれあっという間に黒へと変化をすればもう逃れられない。男への思考へと切り替えられ、はますます床に蹲った。どうしたらいいのだろう、この闇があの人ならば私は喜んでどんな痛みでさえも受け入れるだろうか。柱に頭を打ち付けると、嫌な音が数回。気づかない間に頭をこすり付けて痛みと格闘していた。寒気が遠くから吹雪いてきての身体の芯を冷やしにかかる。重たいローブが軽々宙に浮かんだ。

(我輩を憎めばいい)

何に対して、と返しかけて止まる。頭を上げた彼女に見えるものは何も無い。それなのに今浮かんだ言葉は、一度足りと男にこの言葉を受け取った覚えが無かった。ガンガンと響く痛みに思わず再度頭をぶつける。今度は痛みがしっかりと走り歯を食いしばった。

「い…たっ………」

冷え切った筈の身体には不釣合いなぬくもりが眼から数滴落ちる。
橙色が黒色に呑まれる様をまだ脳内で感じながら、落ちる涙はもう頭の痛みのせいだけではない。それでいて、その正体を暗闇へと手探りをしている。まだ見つからない。捕まれた二の腕が今頃震えだし、鷲鼻から零れる息が髪の毛を撫でたような気さえした。

「やっぱり、いたい」

何度感覚を口にしてもそれから開放されることは無く、むしろ身に覚えさせているかのようだった。黒いローブが翻る様を思い浮かべて胸は男の大きな無骨な手で握りつぶされてしまう。いっそのこと想いをぶつけてしまえたらいいのだろうか。この淡く今にも消えてしまいそうな小さな思いをあの男に。床の冷たさと背から感じる無機質な温かみにまた目尻へと涙が流れた。

(謝罪すら受け取ってもらえないことがこんなにも苦しいなんて)

あの日以来男の痛めつけ方は益々酷くなり、言動の端々からを絞め殺そうとしているかのよう。真綿なんて優しいものではない。男は知っているのだろうか。そう思いもするのに、時折触れる男の痛みがまるでを引き寄せている気もするときがあった。だからだ、諦めきれず男の背を見つめてしまうのは。痛みを伴うことを恐れずに男へと走っていけるのはそういうことだ。

「なのに」

男は両手を広げようとするを少しでも感じようものならば毒針を突き刺し小さな足を微塵も動けなくさせる。立ち上がる力さえもう残っていない。男が望む言葉を少女は知っている気がした。けれどそれを口にしたら最後全てを切断し、微塵も残らずに沈んでしまいそうな、恐怖が中心に宿っている。痛みは止まらず血は流れていくだけだ。

(愛している)

陳腐だ、と駆け出した言葉の尻尾を掌にしまうことは出来ず、自身を嘲笑するように顔を歪めた。ここまで哀しげで憎らしげな愛情をは知らない。愛を口にするときはもっと情緒的で心を暖めるものだと期待していた少女にとってそれは衝撃だった。誰を、と口にしかけて止める。まただ、云われのない言葉や場面が次々と流れ込む、まるで白昼夢だ。脳内が騒がしさを増しての意識を掻き乱した。この言葉も知らない。聞き覚えのない記憶は気味の悪さを引き立たせ、吐き気を催す。朦朧とした言語は無意識のうちに声を出していた。