( 31:やさしい手がここにあったら )

「おはようございます」
「………」

いつもの朝、いつもの髪型、いつものようにすれ違いざまに言葉をかける。
些か変化したことと云えば重たい皮を脱ぎ身軽になったこと。身を震わせることも少なくなったのだから人々の顔色にも血が巡っていた。春の装いに皆が足を軽くしている中、男は真冬のまま辟易してしまいそうな重さを背に抱えながら少女の投げかけに返答することはなく過ぎる。振り向き、なびくローブの重さを足すように釘を打つけれども男は気にも留めず角へと消えた。頭痛は相変わらず続き、一瞬でも赦してしまえば身体の自由が効かないほどに痛みに五感を支配される。何か、と思い当たるふしを探ってみてもまったくもって身に覚えのないことだった。

あの人は私を知らないのだろう。きっとそうだ。中間に位置する成績を収め、目立った行動もせず良し悪しもない評価をもたれる普通の生徒。友人のような美貌もなく、爪先立ちした処で長身と謳い文句にも出来ない。飛び立てそうなお気楽な陽気にそぐわない風になびいた油気の強い髪は自由な形を描き、少女の眼に強く印象づける。一方的な感情に苛立つことはあっても幸福は一向に訪れない。そんな恋をしていて、このまま学生時代に終止符を打つのだろうか。友人のアマンダはの持ち得る事ができない物を選択する事が出来る。あるにも関わらず「今は関心が向かないの、」と云い綺麗な弧を描くその自然さがひとつでも手にすることが出来たならば恋愛などという薄ら寒さを排除するかのごとく、象徴している黒衣が軽くなるだろうか。

「ねえ、いつまでそうしているつもり?」

下手をすれば一日のほとんどをベッドの上で過ごそうとするをアマンダが悟らせるように云う。気を抜くと直ぐに沈んでいきそうになる思考を持ち上げて姿を追う。ふう、とため息まじりのアマンダの肩からのぞく写真立てにはベスとイエローカラーのネクタイをした男子生徒が映る。ベスは知らず知らずの内にまた恋人が出来ていた。風景に馴染んだものに疑問を感じながら「ベスは?」と聞いた。

「何云ってるの?ベスはグリフィンドールのバカップルの名を欲しいままにしてるじゃない」
今更、と云いたげにしたアマンダに咀嚼した意味を脳内で再構築させてみるけれども柱が立たない。「だって、ベスは…」と続けたところで言葉が止まる。手を広げて受け入れ姿勢の出来たアマンダでさえの違和感に呆れ顔を見せた。昼頃にやっと身を起こしたを甲斐甲斐しく手を取ったアマンダ達の前を通り過ぎて行くベスに「ほら、」と声を上げた。バカップル、と揶揄されるだけあって二人はアマンダ達には眼もくれず指先を絡め、寒気が去ったばかりだというのにお互いの暖をとるかのようにくっついていた。周りは日常となっている光景には反応せず、それをおかしいと感じているのは一人だけだと分かる。昼食へと腕を引っ張られながらも組み立てられない記憶違いに戸惑った。

「私、スネイプ先生のことが好きなの」
打ち明けられた言葉には後ろへよろめいた。ベスには恋人がいたのではなかったのか。さっき見かけた仲睦まじい姿はなんだったのか。別の教室へ移る途中だったは人の眼も気に留める余裕がないほどに動揺した。私も、私もよ、と告げてしまいたくなる。空気を口いっぱいに含み、喉を鳴らした。(私は反対よ!)誰かが叫び、手のひらを宙に何度も揺する。それでもベスは愛らしい顔つきでふふ、と笑うだけだ。何度も否定を積み上げ、ダルマ落としのように飛ばしていくけれども彼女は一度決めたら確固たる意思をもって盲目へと突き進む。そうだ、私は、否定した。

(あんなやつの何処がいいのっ)

数えきれない滞りと憤慨を向けた処で変わることのない想いに最後は折れたのだ。(そうだ、あんなやつと怒りを向けたのにどうして、)含みがある唇は急速に萎み、視点を現実へ戻せば通り過ぎていく他の生徒達は立ち止まり身体を大きく揺するを不審そうにしながら遠ざかった。

(な、に…今の)

アマンダとの昼食は、と顔を下げると腕には重量感のある教科書があった。
行き来する生徒達の多さが授業終わりを告げている。頭の中にはこの重量感に対する涙ぐましい努力の成果はつまれていないと分かった。何もかも上手くいかない。無性に痛みだす目頭を力いっぱいに瞑ることでやり過ごそうとした。

(アマンダは何処に行ったの)

けれどもすぐにその思考は微塵にも消え去った。懐かしさ、と云うのが酷くしっくりきたそれが春風に舞いの横を颯爽と通り過ぎる。 自己である筈の意思は独り善がりにも行動を起こし、腕の荷が解かれる清々しさを感じながら男へと歩みよる。否定しようにも意思が奪われているのだからしようもない心の奥底では求めているそれら。重力を背負った黒衣を追いかけている自分自身に驚きながらもしっくりきている足裏は靴のクッションを嬉しそうに飛び乗っていた。素人ではあるまいし、背後から生徒が近づいてきていることなどとっくに理解しているだろうにかたくなに前進する男に涙袋が熱を持つ。どうして振り向いてくれないのだろう、男の背中に問いかけてみようとする。たんのように喉元で粘着質であるそれは容易には顔を見せようとはしない。

「教授、」

次々と出来ていく口内炎に舌先でなぞればチクチクとした痛みが凝り固まった脳を刺激する。髪質の全く異なった二人に放たれる香りはほぼ一致(ほぼ、というのは男から漂ってくるものが生来のものかと勘違いするほど薬品臭いからだ)しているのは何故なのか。

「ま、って……くださっ」

歩幅の違いに加え、男のせっかちが相まって突き放されることへの滞りを口にした。踊るローブに、華麗に舞う男の黒衣が左右に揺れ動揺を見せたかのような錯覚する。その一瞬のことではには判断出来ず都合の良い想いは直ぐに切り捨てた。「待って」と途切れた言葉で行き交う生徒が足を止める。足を絡めとりたい言葉の鎖はうまく引っ掛かりを持たせてくれない。「教授」と叫べば男へと視線を集め、それが校内一嫌悪の対象であるスリザリン寮長だと分かると青白とおのおの思い浮かべた体調を危惧する色を示し散っていく。それでも男は頑なに振り向くことはない。男の鋼鉄さに折れてしまうのかと思えば少女もまたそれに匹敵するほどの強さだった。

「私っ………」
私、と息を詰まらせた声が跳ねた。五線譜に乗った音を拾い上げよう、と咀嚼するも白紙になる奏でられない音には唾液を飲み込む。その続きは知っている、本能がそう、叫んでいた。赤いランプが光を遠くまで足を伸ばす。主張をしている引き出しを力任せに引っ張りだそうと唇を開く。音が崩れる、空気だけが男のローブに染みて行くようだ。

一瞬のことでいい、振り向いてほしい、疑問と警報機を消してほしい。

「………我が輩に何の用だ…グリフィンドール生」

少女の願いを気まぐれで受け入れてやろうとした男は振り向きざまに口にする。ただそこには何の情も湧かずに平らに滑らした文字たちだった。屈折も障害物も何もない羅列をなぞったそれは枯渇した少女のヒビを引き立たせるだけに終わった。軽やかになっていた足先は途端に鉛を与えられたように動かない。

「……いえ、」

何故男が自身の名前を呼ぶと思ったのだろう。些かも感じられない優しさを男に求めたのには理由があったであろうにそれも直ぐに見つからなくなってしまった。フン、と鼻を鳴らし闊歩していく小さくなった靴が答えを提示してくれるとでもいうかのように眼が離せなかった。