( 32:ずっと空ばかり見ている )

翌日、目が覚めたはぼんやりとする頭を枕に預けたまま首を傾けた。毎日何かに靄がかかったかのように鮮明にならない苛立ちから、気力を奪われ何もする気が起きない。けれども昨日、そうだったようにベッドから起き上がって来ないを叩き起こしにこられる友人の姿を想像すると申し訳なくなった。左右に視線を飛ばすと、アマンダも、ベスもまだ就寝中で、一山ずつ出来上がったそこのてっぺんは微かに上下しているのが分かった。

昨日は何故あんな事をしてしまったのだろう、と思い返す。
そして思い返す度に広がる痛みと布に覆われて直ぐに理解を失くす思考との戦いだった。まるで核心に触れる事を畏れているかのようで、は何かによって分からなくなった感情を切ない、という名前をつけた。何故そう名付けたのだろうか、あやふやに思った。

「…………もうすぐ、最後…」

寮から出てはいけない時間であったがお構いなしに抜け出したの足は自然と中庭のベンチへ向かっていた。真冬の頃、抜け出した寒気の針を思い出し、身体は勝手に身震いをする。積もった雪景色で孤独を感じたのに、今や春を迎えた中庭はその色を無くしていた。早朝から小鳥が忙しなく飛び回り、知らない間に出来ている巣に往復する姿。木々を飛び回るリスや空中を舞う風さえも浮かれていた。

春の出迎えを真っ先にうけたが、ベンチに腰掛けると寒気の名残を感じた。
もうすぐ最後、と口にすれば疾走感を持ったそれが現実味をも引っ張り上げてくる。じんわりと胸を支配する感情を何て表現すればいいのか、また分からなくなったは目尻に浮かんだ涙を今しがた催した欠伸の所為にした。この解決策の出て来ない事柄を置いて卒業が出来るのか。不安と戦いながら、静かに活気溢れる鳥達の様子を鮮明にならない視界で見ていた。もうすぐ最後、それは全てから解き放たれる喜びと、一抹の苦しみだった。

「あれ、先客がいた」

空中を見ていた所為で空から降ってきたかと思い、驚く。けれども直ぐに勘違いだと分かる。どれくらいこうしていたか、腕時計も持ち合わせていないは痛む首筋から時間の経過を察しながら、懸命に動かした。黄金色が朝日で目立ってえんじ色が霞んで見えた。グリフィンドール生の象徴を見つけて、安堵を感じるが声の出所は友人のどちらでもなかった。すっかりくつろいだ身体を引き締め、些かの恥ずかしさを取り払うように姿勢を正す。それが面白かったのかグリフィンドール生は品の良さげな笑いを零した。

「久しぶり、だね」
「…ひさ………?」

一般女性が好みそうな顔つきの青年は、戸惑いを拾う事なく「隣、座っても?」と半ば強引に押し切る。狭いベンチでの居場所が殊更無くなり窮屈な思いを強いられた。疑問の渦中に居るはまじまじと表情や形どるものと記憶と示し合わせてみるけれども、この人だ、という確信が持てない。交流関係があるのは女友達の二人くらいで他の生徒とはまともに友好関係まで育てていなかった。異性なんて特にそれに当てはまり、見れば見る程、記憶にがんじがらめにされる。

「私、接点ありましたっけ…?」

率直な疑問を隣に腰掛けた青年に投げかけ、警戒心をベンチの端に移動する事によって表した。けれども、青年はそんな態度さえ気にも留めず首を傾げた。(そうすればどんな女性でも落とせるか心得ているかのようだった)

「ほら、夏休み。横町の本屋で会ったでしょ」

青年は自身の顔に指先を向けて「覚えていない?」と再度問いかけた。
二度、云われたところで記憶に変動を与えるほどこの青年に思入れもなかったは眉間に寄るシワを感じるだけだった。夏休み、という言葉に引っ掛かりを感じたの思考は急激に失速する。長い寮生活の中で解放の喜びと、母国である日本の夏、規格外の熱さを思い出そうとする。そうすると浮かび上がるのは一年前の夏だった。半年前に迎えた夏の香りは鼻孔をくすぐらない。それどころか、此処のところの日々も曖昧で不安定。ふわり、と風に乗って身体を突き抜けていくのは古本と、湿度の高いイギリス独特の香り。極めつけは、の苦手な処としていた様々な薬草が入り交じった匂いだった。

「卒業したけれど、新入生を迎える為の準備で一時的に戻って来てるんだ」

未だに思いの片鱗さえも見いだせないというのに、青年は言葉を綴り、を惑わした。青年から視線をずらし自身の指先を見る。短くまとまった爪の整列が出迎えていた。短い指先が厭だったは爪先を伸ばし何とか長さを保ち、自分の気持ちに喜びを与えていた筈。無意識に何度も切った爪はその時の思いを蹴り飛ばして。そう、まるで薬草を扱いやすいようにと切った、かのように。(何故か薬草が真っ先に浮かんだ)空白の中で何度も手にしたそれは熟れた手つきで短くした。つい昨日の出来事だ、何故忘れていたのだろう。(なにか、忘れている……?)

「………パイ……」
勝手に動いた唇が呟く。青年は耳聡く受け取り、隙のない笑みでを見た。

「……ん?」
「キドニーパイ、食べていた時の人…でしたっけ」

思いの片鱗を見つけ、言葉が前に行く。青年の云う夏休みの出来事は思い出せないが丁度一年前になる、今よりも些か幼い表情の同僚の顔。ぽつりぽつりと落として行く言葉を拾い、青年は頭の中で整理を付けた後、春ののどかさを吹き飛ばすような活気さを出した。

「そう!思い出してくれて良かった!あ、忘れているようだから云っておくよ」

テッドボナと名乗った青年は気楽な様子で聞き手であろう右手を差し出して催促する。思い出したと云っても断片的で酷く曖昧なものであるそれを果たして記憶と呼んでいいものかは悩んだ。が、差し出された以上はね除ける訳にもいかず、一定の距離感を保ったままその手に自身の手を重ねた。

「……です」
「よろしく…ってまあ、直ぐに居なくなっちゃうんだけどね」

握られた手のひらは容易に相手の中へ収まってしまう。ビリビリと静電気が全身に流れ、身体が麻痺したかのように身が動かなかった。この感覚は何か、形容し難いものの何とか自我を保ったはやっと離される手のひらをローブの中で開閉させた。(たっぷり五分は握られていたかのようだ)テッドは屈託の無い笑みを浮かべ、安心感を植え付けたいようだった。触れ合ったことにより、相手の緊張感をやっとのこと汲み取ったからだろう。丁度いい筈だった体温は手汗を掻くほどに上昇していた。

「……夏休み、の事を聞いても……?」

これが相手に与えられたものなのか、はたまた忘却してしまった思いの欠片の作用かは計り兼ねた。警戒心を小さじ一杯分解いて、青年に問いかけた。テッドは打って変わって、自身に興味を湧いたを大いに歓迎した。気が付けば、空は一層明るみ鳥のさえずりが次第に人々の声と生活音で掻き消されるまで。抜け出したことさえも忘れて夏休みの出来事を埋めていった。