( 33:こころと心臓と胸が痛い )

湖を初めて渡ったあの日、は幼かった。母が大きくなるのだからと云い、二サイズも大きな制服を着せられた少女は酷く不格好だった。着ているというよりも着せられているといったように。何十にも折り返した袖や裾から覗く肢体は心もとなく、船に乗ろうとすればローブが邪魔をする。ローブまでは縮める事も出来ず、ツン、と前のめりになった少女の身体を容易く受け止めた大男は(のちにハグリッドという名前だと云う事を知る)見かけにそぐわない優しい手つきだった。

「気ぃつけろよ。ここの下には何がいるかわかんねぇ」

髭の中に隠されたコガネムシのつぶらな瞳を見た時、制服の中に隠した不安は吹き飛んだものだ。は枕に頭をあずけたまま窓越しに景色を見た。日課となってしまった行為に飽きも来ず、自分にしては珍しいと思った。制服はとっくの昔に身に合うようになったし、ローブで転ぶ事も無くなった。(たまに運動不足の傾向が見られたけれども、それは数に入れなかった)気付かないうちに広がった身体を自身で包み込むが、幼かった頃の大きさなんてもう思い出せない。ましてや心中なんて測りようがなく、あの頃の自身と今が大きくなったのか小さくなったのか、推測も立てられなかった。身を乗り出して外を見れば、湖を見渡せるのだろう、と思うだけで身体を起こそうとは思わなかった。

記憶の底に沈んでいた思い出を引っ張りだしては、また落として行く。それをベッドの中で何度も何度も繰り返した。春夏秋冬、日本のように鮮明な季節を感じはしないけれども確かにある移り変わり。始まりをこうも鮮明に感じられるというのに、どうしてもすぐ近くのものには触れられないのだろう。身を掻きむしりたくなるようなもどかしさに苛立ち、窓辺から眼を逸らした。引き出して行く思いを数えては身が引きちぎれてしまうような感覚に消耗されていく感情。

(どうして、私は…)

先日会った、元グリフィンドール生の広げた記憶の地図にはの心に止めるものは皆無に等しかった。分類さえ出来ないような小さな出会いに夏の間と付けられたそれを嬉々として語る青年とは真逆の感情下に置かれたは断片的な言葉の端々が胸に刺さることへ集中していた。

「彼女を離したまえ」

青年が細切れの言葉を発声する度、断片的に盛り込まれてくる聞き覚えのない言葉。素っ気なく、冷淡ともとれるその言葉は不思議と不愉快と思えなかった。誰であるのか、がそこへ意識を集中する前に青年から答えを差し出され、直ぐにそれがスネイプだと知る。薬学教授とグリフィンドール生の組み合わせはファンシーショップの中に男が居るのと同じくらいに不自然だった。

「その後、君とスネイプ先生は行ってしまったよ」

行き先の分からない、その先は青年に知る事は出来ず、高低差のあるふたつの背中を見ただけだったと云う。青年と同じく辿ろうとしても途切れた道先へ希望は見えず、は同じように眉を下げただけだ。霧は一層濃さを増し、物事をうやむやにさせようとする。退けようにも打開策のひとつでさえ今の彼女には出せない状態だった。

(私があんなにも必死になったのには理由があるの……?)

身体を敷布の上で一回転させ這いつくばり、まるでナメクジのような格好になる。枕に押し付けた顔面の先にある鼻が布と喧嘩して痛かった。自然と涙が滲み、枕にしみ込んで行く感覚を愉しみながら、このまま一緒に蒸発してしまえたら…とできもしない事を願ったりしてみた。魔法を学びに来て、いろんな事が容易だと思えた幼い頃の自身はもう居ない。それが出来ない事を今のは知っていた。

周りのスプリングが軋む音がし始めた頃、枕はすっかりくたびれ、彼女の心情を汲み取ってくれているかのようだ。両隣で友人達が背伸びをした声や、頭を打つけた音がする。目覚めには丁度良かっただろうが、既に頭が冴えているにとってけたたましいくらいだった。左隣でベスが写真立てに対して口づけを交わしているのが見え、早朝には重たい甘さにげんなりする。反対側ではアマンダの「、何しているの?熱で溶けた糖蜜ヌガーみたいよ」と冗句が飛ばされる。返答する気力は無く、枕に頭を押し付ける事で意思表示をした。

アマンダは察しの良さから、全くと云った息を吐く。こうして些細な事でさえ理解を示してくれるものだからつい甘えてしまう。はそろそろ迎える卒業の為に彼女からも巣立たなければいけない、と感じた。

「彼と待ち合わせしているから、先に行くわァ」
気の抜けた声がベッドの端に腰掛けるにも届く。やっと身体を起き上がらせた頃にはベスは制服を着て、漏れのない化粧で可愛さに磨きをかけた。日々のように寮の外で待つ男の姿とベスの組み合わせを思い浮かべてみたが、この間と同じようにまだ納得出来ない部分が残っていた。

「ベスも行った事だし、貴女も早く着替えたら?」
「………うん…」
「本当に、どうかしたの?まるで別人みたい」

柱に身体をあずけたまま、身支度をしようとしない友人を訝し気に見る。云われたでさえも自身の不具合に頭を傾げるばかりで、何処が以前と違っているのか分かっていない。答えようのない問いを濁らせたとして、幾ら察しの良いアマンダでさえも考えあぐねかける。それを制するようには素直な心情を零した。

「分からないの…まるで私ではないような、何か…大切な事を…」

そこで言葉が止まる。忘れている気がする、そう云いたかった筈なのにそこから一言も口にしたくなかった。酷い脱力感に襲われ、一層柱に力を寄せる。関わりの見出せない男の欠片を見つけるだけで胸は痛み、苦しみに悶えるのに、理由は拾えない。すっかり抜け落ちた夏の日々や、以前では考えられないしおらしい自我、霧かかったまま手探り状態から起き上がれない。端々から見え隠れする漆黒さは意図せず処での気持ちを弄んでいた。

「……教授、」

他人が口にするそれはとても苦痛になる。何故、自身が含めば一瞬にして甘美であり、苦みであり、痛みでもあるそれ。友人が口にしたそれはの神経を無遠慮に撫でた。無気力さを貫いていた身は急激に奮い立つ。疑問を浮かべる癖に、友人に転がされたことが酷く癪に障った。

「……止めて、」
「…何を?」

この期に及んでシラを切るつもりなのだろうか。柱に身を預けている自分が莫迦ばかしくなり、スプリングに力を込める。ギリリ、と歯ぎしりのように響いた音は身体を駆け抜けた。アマンダは鋭さを持った友人の姿に驚きを隠せず、珍しくも狼狽えた。はこの感情の正体を暴けないままに、隠し切れない苛立ちを視線向けた。

「教授と呼んでいいのは私だけよ。喩えアマンダ、あなたでも赦さないわ」

放った矢は確実に友人を射た。二重に驚きを重ねたアマンダは言葉を失い、自衛本能により数歩後ずさった。嫉妬という言葉でさえも霞むような憎悪と呼ぶにふさわしい衣を纏ったを丸くなったままひとときも逸らされない眼が見ている。は分からなかった。今、親友であるアマンダに対して抱くことの到底ないであろう感情を向けている事に。何が引き金となったのかは火を見るよりも明かで、山のような疑問に今更ひとつ加算されたからと云ってとくに支障はない。心臓が鈍い音を立てて、責め立てている。

、あなた……」

広がる憎悪が身を燃やしてしまいそうだった。向けるべきではない事は隅の方でかろうじて保たれている理性が云う。しかし、舵を取られてしまえば幾ら呼びかけたところで効力は皆無に等しい。扉まで下がって行く友人の姿を相変わらずの感情下に置かれたままは見る。教授、は自分だけが呼んで良いものだった。

「………、へたくそだな」
「……え?」
持ち上がった身体は確固たる意思を持っていたが、身体は専ら感情に支配されていた。脈略のない言葉を呟いた友人にアマンダは呆気にとられた。

「スネイプ教授が、そう……云ったの」

パラパラとピースが降り掛かる。雨のようなそれらのほとんどは無地のままだ。耳に熱が集まるのを厭わず、呟かれた男の言葉。闇に溶け、一層重さを背負ったローブを握った強さ。抱きとめると見た目以上に細さを持つ身体。アマンダは手にかけていたノブから離した手のひらをへと伸ばした。あれほどの強さを見せた友人は風船に穴があいたように呆気なく小さくなった。伸びて来た腕を受け入れたは、両腕を背中に回そうかと空中に迷わせる。一瞬とはいえ向けたものは到底赦され難いものだ。その不安が抱きしめたアマンダへと伝染したのだろう「大丈夫よ、敵じゃないわ」と耳元で呟く。

おずおずと抱き返すと、その背中は今の穏やかな 想像出来ない程に湿っていた。一気に罪悪感に苛まれたは謝罪を込めて力いっぱいに抱いた。言葉を今この場で吐いたとしても嘘に聞こえてしまうと思ったからだ。裏切られたというのに容易く受け入れてしまう暖かさに心が溢れてしまいそうだった。

「わ、たし……」
「うん」
「……きっと、あの人の事が好き…」

何もかも不明確なまま、落とした言葉だけは真実だと云えた。
舵が取れなかった感覚が無くなり、軽くなるそれは女手でも簡単に操作出来る。しっくりきた告白はぶれた軸をしっかりとさせ、確固たるものにした。身に纏った服からは微かに薬草が香る。何度も洗濯をしたというのに、一向にとれなかったその匂いに胸を切なく絞めた。アマンダはあれほど吃驚に身を寄せていたというのに、友人を見る眼は何処までも澄んでいた。