( 34:さわらなくても最後 )

「教授、」
記憶を奪っても尚、自身をそう呼ぶ少女に胸を掻きむしられる思いだった。忘却術をかけても潜在意識という魔法では覆いかぶせられないものが彼女らしさを蘇らせようとしているのだろうか。呼ばれた処で歩みを止めてやる義理も、ましてや相手がグリフィンドール生ならば尚更の事。歩幅を無理に合わせようとする少女の息が弾んで男の元へと届くのを感じつつ、それを牽制する事もしない。一言、スリザリンの寮監が「グリフィンドールに十点減点」と告げればいいだけの話だ。健気にも追いかけて来る少女はスネイプに対しての恐怖心は殆ど持っていないのだろうから、寮の貢献度を落とす畏れを抱かせたらいいのだ。

「待って…待って下さい……!」

それでも出来ないでいるのは、畏れを抱いているのは少女ではなく男の方だからではないだろうか。(惜しい、と微かに思っているのか?)無慈悲にも取り上げた記憶を持つスネイプは呟く。否、そんな訳はない。自身には使命があり、この身は既に自身でどうこう出来る代物ではなくなっているのだから。少女の叫びに呼応して散る生徒達のネクタイは疎らでその中には自身が受け持つ寮のシンボルカラーの姿が男の眼を刺激した。幾ら贔屓目があったとしても畏怖の対象である事には変わりないようだ。好まれるようには接しては居ないのだから、男は納得ずくのことだった。その中にあっても気骨のある少女は散っていく生徒達の間を避けながらもスネイプの早さを追いかけて来る。

望みのない、事に必死にしがみつく少女の姿は愚の骨頂だと男は鼻を鳴らす。が、しかし何処か見覚えのある姿が男に踏ん切りを付かなくさせているのか、些か不愉快であった。感情が足並みを益々不安定にさせた。

「私っ………」

不可解だった声は急激に進化し、切羽詰まった声色になる。本能が耳を傾けてはいけないとけたたましく警報を鳴らし男に知らせた。唇は乾ききっているというのに口内は唾液の海で溺れてしまいそう。スネイプはハイネックの内側で喉を数回上下させた。途中ボタンの引っ掛かりで息が詰まりかけるが、それも気に留める余裕を少女は持たせてはくれない。

「………我が輩に何の用だ…グリフィンドール生」

賛辞を自身へと向けても過剰にはならない。上手く発せられた言葉は氷柱のように少女を刺す。先ほどまで一心不乱に、無邪気に追いかけてきた足は男の一言により一歩も進もうとしなくなる。乱れた制服や、グリフィンドールを主張するネクタイが歪んだまま、静寂を守りながらもスネイプを責めた。(自身でしでかした事であろう)苛まれた心を叱咤するように呟けば、まんまと男の罠に引っ掛かったは服装だけに留まらず、表情も固く歪まれた。

掻き消えそうな音を床に落とした少女をそのまま置き去りにして、スネイプはその場を立ち去った。これでいい。深海の底へ沈んで行けばいい。気付かずに捨ててしまえ。卒業を間近にした少女の未来は輝きに満ちているのだろう。それをスネイプという男の持つ枷に引きずられることはないのだ。不意にかすめた杖が男をなじるかのように揺らめかせた気がしたが自身の杖の事だ。また気まぐれでも起こしたのだろう。

首が頭の重さに耐えられず、悲鳴を上げたお陰で男は眼を覚ました。スネイプにしては珍しく執務中に寝落ちという失態をしてしまったようだ。頭を持ち上げる、遅れながらも追いかけて来る痛みに顔を顰めながらそこへ手を当てた。地下室に蔓延した冷気の所為で氷のうをあてていたような冷たさが手のひらを縮め上がらせる。地上ではすっかり春の陽気な音がそこら中で奏でられているというのにこの場といえば変化は訪れない。

地下室内を占領している男もある一定の時期を過ぎたあたりから全てが変化に乏しくなっていた。唯一指摘するならば痩躯な身が更にしぼられたという具合。手のひらを頬へ持って行けば頬骨が指の関節と衝突して痛んだ。

(忙しさにかまけて、食事をしていなかったからか…)

自身の腕によって崩された羊皮紙がスネイプの腕を巻き込んだ。無駄に長いレポートを提出したわりには中身の無い退屈なものでしかなかった。(これの所為で、)スネイプは首の痛みと眠気で虚ろ気味の頭で掴んだままだった羽ペンで荒々しく最低点を書き入れる。最も、痛みが首を刺激していなければもう一段階上の点数だっただろうに、八つ当たりもいいとこだ。追試で泣く生徒の名を一瞥するとフン、と鼻を鳴らしそれを端へ避けた。虚ろな記憶回路では顔もおぼろげであり、レポート内容と同様特徴の無い生徒だったと男は記憶していただけだった。

些か顔を上げれば時計針は起床にやや早急な時間を知らせている。意識があった頃から今を逆算しても睡眠を取ったのは二時間足らずで、益々男の頭の重みが増すのが分かる。

(たしか、調合した湿布が)
地下室同様冬から目覚めていないスネイプのローブも厚みに比例した重量感があり、ふらつく身体には毒だった。壁伝いに調合棚へ向かい、記憶していた収納場所を開く。その間もギリギリとスネイプをなじる痛みに難色を示した。もともと顔色が悪いため、やや上乗せられたからと云って変わりはない。

(痛み止めは先日の事で最後だったか…)

仕舞ったと記憶していた痛み止めはなく、スネイプは静寂の中で舌打ちを響かせた。先日というのはある生徒の失敗によって爆破された薬品事故の事だった。そのある生徒は今スネイプの口元へ持って行くには命知らずと云って良い名である。男はそこへ意識が行かないよう、薬品でただれた皮膚へ意識を集中させた。その時に負った傷はもうほぼ完治したと云って良かったのだが、何せ相手は魔法薬だ。(という事にして自身が魔法薬学の最高位に居る事を忘れていた)些か時間を取られすぎた、と理由にした。ただでさえ手つかずのものが山のようになっているというのに、自身の事でかまけてはいられない。そうは思うのだが、睡眠不足の上に襲う痛みは尋常ではない為、男はしぶしぶ材料を取りに地下室を出た。

ローブを押しのけ身の内側へと入り込む春風に、体力をも持って行かれそうだった。すっかり放出されてしまったエネルギー不足の身体は暖を取る事が出来ず、寒気を凌ぐローブを着込んでいても身震いする。スネイプはいささか自由のきかない自身に気力を根源に天井からつり下げられた操り人形のような感覚を持つ。その糸のお陰で果てしない距離の廊下を着実に進んだ。生徒にとって朝を迎えるには早いため、男一人のものだ。

「————」

鳥のさえずりかと思った。聴覚までもが莫迦になっているらしい、と悪態を付く。大人の声ではない。まだ幼さが残る高い声が調和を奏でているように聞こえた。それが男の都合の良いものに聞こえてしまうからたちが悪い。首の痛みを顧みず、普段は見もしない光の方へ誘われるように眼を向けた。何故か、と問われるならば気まぐれを起こした、としか説明しようがなかった。「チュチュ」と鳥達が煩わしくも空中を気分良さげに舞っていたのはスネイプの耳が正常だという事を教える。陽気な鳥達とは真反対の立場にある男にしてみれば不愉快極まりない光景だった。

「テッド・ボナだよ」

正面に戻す、視線の早さに負けず残像がかすめる。まさか、と中庭を尻目に歩みを止めた。ただでさえ痛みで回らないというのにスネイプは刹那それを忘却することで己の冷静さを欠いている事を示していた。二人掛けのベンチに段差のある二人の身体。少女の方がやや、青年から距離を取るように端へ寄る。どちらもグリフィンドールのネクタイを締めていたが一人は卒業したばかりではなかったのかと、思考を巡らせ、直ぐに合点がいく。

(雑用係、か)

自身に関係ないからと奥に押しやった、校長の台詞が浮かび上がる。「関係ない」そう零したスネイプの目線は、元グリフィンドール生ではなく、遠目からでも分かる程に頬を染めた女子生徒だった。そしてその表情で隣の男へと話しかける彼女はまるで恋を愉しむ少女のよう。ベンチの端へ避けた身体も羞恥心からだと思い込めば丸く収まってしまう事にスネイプは苛立った。そして、すっかり捨てていた痛みも重ねられて苛立ちは増す。

「……です」

男の下心を失念した少女は、ややぎこちなさが残る笑みを浮かべながら青年へ自己紹介をした。その笑みで、何故見るのだろう。何故、そこに居るのは自身ではないのだろう。無意識に渦を巻く妬みが男に問いかける。だがそれも一瞬の出来事で、スネイプはローブの内側で握りしめた指先から液体がこぼれるのを感じた。閉心術を心得ている男にとってそれを闇に隠す事など赤子の手を捻るよりも簡単で、その双眸からは何も窺い知る事は出来ない。

「よろしく、」
「……はっ…はい…」

差し出された力強そうな腕が(強引ともとれる)少女に催促する。受け取るのか見物だと、スネイプはやや眼を細めるがいとも簡単に裏切られる。重ね合うものがただの挨拶程度のものだとしても恋人同士の馴れ合い、それ以上のもののように感じ男は気分を害したように奥歯に力を込める。(何を、そんなに握り合っている)スネイプの体感時間ではたっぷり十分は経っただろう。はね除けてしまえばいいものを、と口を挟みたくなる衝動はおぼろげだった思考に飲まれる。握り合う手のひらを、見やった後、男は何も云うでもなく歩むことに専念した。本来なら減点処罰対象だと云うのに元より目撃していないと云う態を守るようだった。

自室へと戻って来た頃には天井越しに微かに聞こえる生徒達の声。スネイプは尽きかけた気力を振り絞りながら調合した薬をうなじに塗りこんだ。自身が調合した完璧な薬剤にしくじりは無い。即効性のある薬だというのに、ひりひりと痛覚を未だに与えて来るものは何であるのか。この期に及んで思考を巡らせたくはなかった。そのものの核心へは手付かずのまま終止符を打つつもりだったのだ。それをいつもタイミング悪く根を埋めようとしてくるのは、何かしらの陰謀が働いている気がしてならない。

「あり得んな」

提示した説を自身で打ち砕きながらも男は椅子へやや乱暴に腰掛けた。(我輩を出し抜ける人間など、あの方しか居ないのだ)多少の食わせ物ではあるが、全信頼を置いている翁の顔が浮かび上がる。スネイプは苛立ちを抑える事には慣れている為、癇癪玉を手中で転がした。

そうでもしないとこの場を切り抜ける事は出来ないと云った具合にだ。片隅に揺らめきを与える男女の姿は余裕を持つ男を崩すには最適な材料だった。仕事へと戻ろうと羽ペンを手にしたスネイプに頬を朱く染める少女の残像が文字と重なる。また記憶の定まらない人間のレポートを見る退屈さに現実逃避に走りかけているのか。スネイプは厄介になった思考に遊ばせていた癇癪玉を投げ捨ててしまいたい衝動に駆られる。

(これでは、道化師ではないか)

少女の感情に気付いて先手を打ったのはこちら側だ。そうした事によって生じる他の道へ行く少女を惜しいなどと思うとは。滑稽以外の何者でもない。三分の一も頭に入らないそれに下から二番目の評価を荒々しく書き入れる。

(見られる物を提出出来ない輩共め)
最早放棄してしまったとも云えるそれはひび割れたまま床に転がっていた。憤まんを羊皮紙にぶつけ、発散を試みるが無駄に終わりそうだった。乱暴に投げ入れられても丁寧にくるくると元の形を成すそれらを忌々し気に一瞥する。羽ペンの先と羊皮紙の繊維に引っ掛かる。それが益々男の神経を苛立たせた。もしそれがなければP(お粗末)を付けただろう。どれだけトロールを付けようが、男を占めてしまうのは苦し気に腕に縋り付いた少女の姿だった。