( 36:ただただ広がっていくだけ )

ホグズミードへ遊びに行こうと誘ったのは、意外なことにの方だった。
時間ばかりが通り過ぎて行き、身に迫る卒業から逃れられないことの重さを受け止めながら、壮年の男への想いは薄れることもないし、冷ややかさから身を引くことのない男から仲を深めることは困難を極めていた。梟は早速の返事を足にくくりつけていて、はしたためた手紙をポケットに入れた。

「ありがとう、セブ」

口にする度に、確実に蝕まれる想いに苛まれながら、どうして梟にこの名前をつけてしまったのか、勢いの恐ろしさを実感した。けれども、秘め事のように、本人に対して決して告げることのできない愛称を、ひとりの場で呟く幸福感からもまた、逃れられなかった。

(—君に会えるのを愉しみにしているよ—)

テッド・ボナからの文字が反芻されて、驚く程軽快に踊りを披露する。
そうすることで自身が思うよりもずっと、嬉しい気持ちなのだと知らされた時、胸の片隅を針で突かれるような鈍い痛みが何度も、何度もしたが、今はこの幸せに浸りたいとばかりに感覚は麻痺していた。

「貴様は、ろくに文字も読めんのかね」

昨日もスネイプに詰られたばかりで、まるで拷問のようだと思いながらも、こみ上げてくる動揺をひた隠すように唇をきゅっと結んだ。他者よりも自身に向かって風当たりが一層強いことは、鈍感なでも察することはできて、答えようのない苦しさから、うっかり、煮詰まっていない液体の中に、山嵐の針を入れてしまいそうになった。それを、たまたま、通りかかったスネイプが声を荒げて叱責したのだ。

そもそも、自身が招きいれた言葉なのだから、泣くのは門違いというもの。相手が威圧感のある蝙蝠でなければ、思い悩むこともなかったのだろう。そう、喩えば先ほど梟に託した手紙の相手だったり、他の同級生だったりしたのなら、は翌日にはからりとした笑みを浮かべられていたに違いない。

(あの人だから、私は…)
梟に新たな手紙をくくりつけながら、ぼんやりとしてかの人へ想いをはせる。そうしていたところで、解決することもなく懸想するだけしか出来ないというのに、一瞬でも油断を赦してしまえば、全てはあの人へと向かっていってしまうようだ。

「あー駄目。駄目、考えないの、私」

一度たりとて、思いやりを向けられたことのない相手に、恋心を抱くことが無謀であり、舌を直火に当てているような、ヒリヒリとした痛みが広がるだけ。誰もいない梟小屋で、羽毛が乱舞するのを御構い無しに、首を盛大に振りながら、見込みのない恋慕を振り払おうとした。一時しのぎであっても、眩暈と羽毛のくすぐりで四散した感情は、すぐに梟たちの鳴き声にかき消されて、は何を思い悩んでいたのか、その時にはすっかり抜け落ちていた。

(そろそろ午前の授業が始まる…行こう)

ローブを脱ぎ捨てて、また随分身軽になったのと、快い返事をもらったことへの喜びとが相乗効果をもたらして、足元を軽くさせる。小屋を出ると、先ほどまでの窮屈さが嘘のように、広大な景色が広がりを見せていた。塔の最上部からの下段は、延々と続いており、うんざりするような長さであるのに、気分の高揚に気を取られて当然のこと忘れていた。片足ずつが宙に浮かび、ステップを踏みながら階段を降っていくのが危険であることも重々承知の上だったにもかかわらず、無意識下に引き起こされる行動を抑制する理性は、そこから足を踏み外してからやっとのこと機能する。

「ひゃッ…!」

ずるり、と靴底と段差との摩擦が厭な感覚の下、なされ気がついた時には、空中を浮かぶ身体と、口から落ちる悲鳴が別人格を持ったように、ゆるりとした速さを保ちながら、しかし確実に少女を突き落とすように景色の良さを見せた。

(————死にますわ————)

占い学でトレローニーが告げたことが現実として、の身に降り掛かろうとしている。危機感は頭の中でできる限り、全ての警報機を鳴らし、助けを呼ぶけれども、梟小屋は滅多に人が訪れることのない場所であったことから無駄な抵抗だった。

(このまま、私は)

これだけ高所から落ちてしまえば、いくら魔法を駆使したとしても魂を引き止めることは困難に近いことを、この間黒衣の男—スネイプに辛辣ながらに教え込まれたのを、何故か思い出した。

苦痛に頭をもたげて、そこから逃亡したい心持ちでいるのに、それは叶わずにいて、身をよじろうと腰らしき場所に力を入れてみても、動きを赦す感覚はやってこなかった。思えば、随分瞼が重たい気がする。意識はこのところで一等と云っても過言ではなく、走り去る景色は色鮮やかでいて、眼にも止まらない速さで何かを終えようと必死になっているようだった。こんなにも鮮明であるのに、瞼は重たく、力は入らず、指先に意識を持って行こうとしても、走馬灯のような景色から逃れられなかった。

(…私は、)

瞼の裏側でチカチカする瞳は、逃げ場のなさに苦しくて、たまらない。よくよく思えばどこもかしこも痛覚が敏感であるような気がして、恐ろしい気持ちが沸々とこみ上げてくる。それは少し淋しさの痛みと似ていて、胸を抑えようにも動きを赦さない身体は沈黙を続けた。死を連想させる痛みに、俯瞰とした心持ちで、これが死というものなのか、とは思った。

(私が、願ったから)

それとも予言された通りになってしまったのか。自らの置かれている状況が把握できない以上、は冴えた思考のみで結論を出すしか手立ては残されていなかった。階段から足を滑らせてしまったこと、それからの記憶の一切が抜け落ちており、どのような惨状を招いたのか想像の範疇からはみ出ない。

「莫迦者!」

ぼんやりとした景色の中で、色だけが美しく映る世界で、ここのところ声を聞くのも苦でしかなかった男の言葉が耳をくすぐる。云われ覚えのない忠告に、は身を縮ませて、次の襲撃に備えてみたがどうやら続きはないようだった。

それに重ね合わせて、ばたばた零れ落ちる黒の多い重量感のあるものが、雨のように降り注ぐのを、避けることもせずに身に受けてしまい、痛い眼にあう。身に覚えのない出来事が絵の具で目一杯に潰された。

話題は今朝からある一件の独断場だった。
下世話にも耳打ちし合い、持ち得るだけの噂の交換をスネイプは一瞥をくれるだけで、それらから遠ざかる。—二股をかけて、嫉妬に狂った男のどちらかに突き落とされた—というもの、—浮気相手の女の復讐—だの、はたまた自ら身を投げ打った、ということまで云われた。莫迦莫迦しいと一蹴するも、少女がそこまで周囲の好奇の的になりうる要素を持ち合わせていたことに些か驚いた。東洋の魔女、という希少価値があるからか、常々そういう要因はあったに違いないのだが、スネイプはそういうことに対して、無頓着だったのが救いだった。

(本心で心労を貯めているのは、二人程か…)

教員席から、少女の友人であろう二人組が肩を寄せ合い、遠目からでもはっきりと打ちひしがれている様をスネイプは見つめる。友人が多くないことは夏の一時の間に、梟を迎える回数から、察しはついたが、ほとんどが面白半分でしか彼女を語れないことに、スネイプは無意識にも苛立ちを指先に込め、パキン、と怪しげな音を響かせたが、この状況下では誰も男の差異に気を留める人間はいなかった。

「セブルス、彼女の容体はどうかね」

ああ、とスネイプは忘却のかなたへ押し込めた翁の存在を思い出し、些かうんざりした気持ちが喉元までせり上がるのを、なんとか飲み込む。真っ二つに折れたフォークをクロークの内側に隠しながら、立ち上がる男の姿を、繊細な鉤鼻の上に乗る眼鏡の向こう側の瞳が輝きを損なわずに、見ていた。

「あの高さから落下したのでは、なんとも云えませんが」

早々に立ち去りたい衝動を押さえ込みながら、翁の動向を双眸が捉えようと一点から逸らさないとしても、相変わらず相手の方が一枚も、二枚も上手だった。そもそも、何故自身に問いかけるのであろうか。この場合マダムポンフリーに尋ねた方が適切だ。彼女はそこで、今も、白い空間で静かに息をついているのだから。漆黒の双眸に過ることのない情緒を、優雅さを損なわない翁は、たっぷりとした白髭を撫でつけて態とらしく「フム、」と言葉を零した。

「しかし、君が薬を煎じたのだから、経過を知るのは尤もではないのかね」

ダンブルドアはさも当然であるように装いながら、スネイプの奥底の潜在意識を引き出そうとしているように一向に曇ることのない瞳で云う。

「…眼を覚ますか、否かは彼女自身にかかっていると、見受けられます」

自身にはまばゆいばかりの瞳から眼を背けることは、肯定したことと見なされる為、腹立たしい腹中を抑えるが如く、眉をひくりと動かす。起伏の少ない男の一々は、逆手を取れば分かりやすいとも受け取れて、ダンブルドアは視界を狭めたが、相手の観察眼まで緩めるつもりは毛頭ないようだった。男がそちら方面での知識が底なしのように、万が一の失態を起こすなどと、微塵にも感じていないのがよくわかる。

「若者の一々が気になるのは年寄りの特権でのう」

細められた視線の先にいる黒衣の男は、不快感を露わにし、隠伏する術をこの時ばかりは解いていた。早朝と云うこともあり、頭痛の種が一層大きくなっているのは仕方ないにしても、翁の云わんとするところの意図を容易に汲み取れてしまうのは、この状況下では不服だった。

「…失礼します」

スネイプは早々に立ち去りたい心持ちを包み隠さず口にした。
辺りのざわつきに混じる、噂話の尾びれ背びれが耳に痛くなってきた頃でもあり、手のひらに隠し持った食器の成れの果ても、自身の心情を如実に表しているようで不愉快極まりなかった。もとより翁への返答を頂戴しなくとも、場から退場することに迷いはなく、寮監の鏡というように、まさに蛇のような滑らかさでダンブルドアから抜け出した。

「君は、生きておる。セブルス、それを忘れるではない」

キラキラとした瞳が、好奇心たっぷりな少年のようでもあり、見た目との不釣り合いさにスネイプは喉元からせり上がるものを飲み込んだ。大賢者の言葉は様々を含んでおり、ピースをばらして新たに意味を成すことが出来た男は、益々気にくわない。スネイプは朝日に不釣り合いな影を壁に写しながら、廊下を荒々しく踏み鳴らした。