( 38:この涙ははつ恋の残滓 )

腕に絡まる白い螺旋が、シーツに散らばり、それらすべてが白いものだから擬態したように見える。もう少し強く巻けばよかったのに、高鳴る心臓に緊張感とほんの少しの罪悪感が混ざって、うまくいかなかったようだ。勢いとはいえ、啖呵を切ってまで申し出た行為が、完璧とはいかないまでも、検討のくらいまで持ち上げたかったのに、男の柔いだ唇を視界の端に映してしまって、余計にだめになった。

「………、へたくそだな」

薬学教授のこと、誰かの手を借りるよりも自身でなんとかした方が早かっただろうに、は後悔を滲ませながら、思ったよりもずっと近くで鼓動する心臓に驚きを隠せない。

(——冷たくて、温かい——)

様々な薬草の匂い、には未知の匂いがとても心地よく、湿度でしっかり冷え込んだローブの冷ややかさに、浮かぶ青白さの内側は、じんわりと温かかった。思考回路の巡りを待つ間もなく、伸ばした両手は大きなローブを掴んでいた。

(初めてで、初めてじゃない)

懐かしさに胸を締め付けられるような、親しみのある温度が、涙を誘って目元を輝かせる。戸惑いは互いにあったようで、黒い塊は頭を垂らしたまま、わずかに左右に揺れ、逡巡しているようだった。そのわずかさが、泣いているようで眼が離せない。

(—独りにならないで—そう思ったの)

深くなる意思が、どちらの思惑だったのか、今はもう分からないほどに溶け込んでいて、隙をつくれば即座に埋められてしまいそうなほど、相手に依存していた。迷いを染み込ませていた身体から、次第に腕が決断を鈍りながらも、まっすぐに伸びてを抱きしめ返す。ほろほろと、溢れるのは切なさからなのか喜びからなのか、もう分からない。

「——————」

黒衣の男は掻き消えそうな声色で呟いた。
地を這うような、心臓に残る声色が弱々しく、哀愁を含んで耳に強く残す。重くなる瞼の裏側で、もう少し聞いていたくては、胸に押し付けていた頭を上げようとして、男の両腕に阻止される。畏怖と矜持を持つ男の顔が、はとても好きで、ずっと見つめていたい心持でいたのに、思い出されることを否定させるかのような行為だった。それも、男自身の自衛というよりは、破壊に手を貸してしまうのでは、という恐怖の現れのようだとは思う。

(怖かった、でも今は……)

それからは走馬灯のような日々が流れた。
眼を凝らす余裕を持たせないで、巡ってしまった日を振り返ろうとすると、それに気を取られては、いつくも取りこぼした。

白に映える黒が、霞む脳裏に焼き付いて、離れない。移り変わり、肌寒さをよそ事に感じながら、夢うつつを行ったりきたりする。そして物事は懐かしさを捨てて、目新しさのない場面に変化した。一切を遮断するかのような白銀に、不釣り合いとも取れる烏羽色は、圧倒的な美を放ち眼を逸らすことを拒む。もとより、そこから離れたいとも、意識を移したいとも思わなかった。侵されることを知らないそれは、足場の悪い処から、こちらを覗き込んで、闇が一層濃くなるかのように、辺りが薄暗いものに感じる。けれども、伸ばされた冷たさは、驚くほどに温かく、思わず涙が浮かんだ。

(いつだって、私を助けてくれる…)

それが人であるかすら分からないのに、確実さをもって分かった。
無意識のうち、求めていた心が歓喜して震えた。漆黒は風に追われながら、留まり続ける。それは純白を唄う景色を持ってしてでも敵わないようだった。

「………」

現実へと引き戻しにかかり、意識が明確になる。不安定だった脳裏は、次第に明快な映像を渡してくれて、靄が晴れていくのが分かった。それと引き換えに、目蓋が鉛をたずさえて、視界を遮ろうとする。薄い皮膚の裏側で、フィルムの終わりが引かれて、映る。追憶に過ぎないそれが、あまりにも鮮やかに映るものだから、終始目が離せなかった。

白い螺旋を腕に巻きつけたまま、その先には魔力の媒体である杖が、確固たる意思を持って向けられている。細身でありながら、存在感のあるそれは、持ち主さながらの姿形をしていた。胸を焦がしたバリトンヴォイスは無情にも『忘却呪文』を唱えて銀糸を取り除いた後、困惑するようなそぶりをして、薄暗い場から退く—その後ろ姿は元の持ち主の記憶ではないように思えた。

「…そう、だったんだ」

近日までの自分自身がどうして、ああも不安に駆られていたのか、それが何故接点もなかった筈の教師に向けていたのか、納得づいた。そもそも、接点がなかった、と頭に浮かべる行為自体おかしい話だ。軸となっていた教師、セブルス・スネイプが徹底的に避けたことも、目新しかったが、随所で現れる戸惑いには理解は及ばなかった。けれども、それも全て知ってしまえばどうでもいいことだと気づく。

「迷惑だったんだ…はじめから」

一度かけられた魔力の端が、戻ってきた訳も分からない。不完全だった、と云うのはのような一介の生徒がかければ、の話だ。現時点で魔法薬学を教えているとはいえ、かの男は随分な手練手管の持ち主だと、数回耳にした覚えがある。そんな相手が術をかけ損ねた、なんて到底思えなかった。力の入らない指先が、無理に布を引き寄せる。白さが移った甲から、数本、青白い川が浮かんだ。

遮断された視界では、空のみ唯一色味があったが、それも味気のない医務室の天井だ。
いろんなことが一気に押し寄せて、混乱を招いたが、寒気がするほどの静けさのお陰で、自身が置かれている状況を把握する。

漂ってくる薬品の匂いは、記憶に懐かしい。
医務室なんて学生生活の中、指折り数えるほどしか足を運んだ覚えはないのに、懐旧の念がこみ上げてくる。植え付けられた感覚は、誰の引き金か、なんて思うよりもずっと染み込んでいて、手間が省ける。だけど、今はそれから遠ざかりたかった。随分固まってしまった筋肉が、動くのなら今すぐにでも、走り出して逃げ出したいくらいには。

「優しいから、だから」

傷は浅いうちに、原因から離す必要がある。のめり込んでしまえばその分、痛みは深く、重たくなり、いつしか致死量ほどの血液が身から出て行く。理知する男の、優しさだ。混沌とした記憶の中であっても、男は期待を裏切らない。好きだと、想ってやまない処だった。

『——……してる——』

記憶のどこか、男が呟いた気がしたが、それはとても不確かな言葉で、願望がみせた幻聴だと思った。それを打ち消すように、核心を失っていた間の自分に向ける、相手の言動が全てだった。

憎悪に満ち満ちた漆黒の双眸が、心臓を滑らせることなく、ひとつきで仕留める。振り向きざま、黒煙のように広がったローブが、男を一層大きく見せた。しかし、それが分かったとして、過去にしでかした行動を、なかったこと、には出来ない。破裂しかけた感情線から、謝罪の言葉がぽろぽろと落ちた。

「…ごめんなさ…ごめんなさい…」

サイドボードには経過を知る道具はなく、置かれているのは薬らしきもの—人体に影響を及ぼしかねない色で、明らかに喉を下すのに苦労するものと分かる—だけだった。セブルス・スネイプの全ては知りようがなかったが、見えざる何か、枷をつけていることに、なんとなく気がついてはいた。他者の思惑を汲み取ることもままならないのに、そう感じるのは、ただの教師として接していなかったということに気付かされる。行き着いた処で、手立てはないのには今にも溢してしまいそうな涙を枕で拭った。

——なかったことにしたいのなら、あの人の望むまま、受け取ろう——
それが唯一返せるものだと、は睫毛を伏せて、遠ざかるように目蓋もきつく閉じた。

『——かた——』

遠慮がちな物音がカーテンの向こう側から響いて、うつ伏せた身体を持ち上げる。いの一番に友人たちの心配げな顔色を浮かべて、謝る言葉を反芻させた。こちらは思い返さなくても真新しい、それほどまで、煩いを与えていると心苦しくなった。それは誰にも知られたくないように、ひっそりと空気を切りながら、確実にこちらに向かってくるのを知らせる。

(アマンダ達…じゃなさそう)

ふたりのことだから、忍び寄ってくるような高等なことはしないで、声をかけながら寄ってくる筈だ。
は静かに近づいてくる気配に身体をやや強張らせて、待った。しかし、それは薄い幕の向こう側にたどり着いてからぴくりともしなくなり、一切の気配を殺しはじめる。こちらから声をかけても良かったのに、何故だか憚られた。暫くの間が、遮る布の揺らめきで解かれる。先に声を出したのは、からだった。

「……マダムポンフリー…?」

他に思いつくのは、この空間を仕切る人間の名前だった。
彼女ならば病人を最優先に考えて、物音を溢すことを酷く嫌う、そう思ってのことだった。揺らいだ布に僅かに陰る色味が、一度遠ざかっていって、躊躇いをみせる。返ってこない返答に彼女らしからぬ、疑問を浮かべさせながらも、腰を上げて、布が引かれることを望んだ。

どうかしたのかと心で反芻させた言葉は、うっかり、口にしてしまう。
それを聞いた影が、瞬く間に大きくなった。

「…ポンフリー?………あ、」

小気味良く引かれたカーテン、二回目の呼びかけに応じた相手は、マダムポンフリーではなかった。
感情が迷子になるほどに、混線した脳内から必死で引き上げて、思ったのは、逃げ出したい、という気持ちだけだった。白と見間違うくらいに青白い顔色は、眼の前にした男と同じか—それ以上だった。

「………」
「………」

両目から落ちてしまいそうだ、とスネイプは思った。
それほどに少女の瞳は丸く、見開かれ、それは次第にゆらゆらと船を漕ぎ出した。長い沈黙はカーテンを引いた指先が、するりと落ちていく音で遮られ、水面が見え始めた瞳をスネイプはただ見つめる。今にも泣き出してしまいそうな双眸から、意固地な男の心を酷く惹きつけてやまない。そして奪ったものの多さを思い出しては、眉間に刻んだ痛みを強くさせた。

「…あ、の…」

畏怖を抱いているであろう少女は、男よりも早く、話題を切り出そうと言葉を切るけれども、上手くいかなかったようで、細い首元が痙攣する。当たり強く散らしていた教師が、自身の見舞いにいち早く駆けつけるなどと、想像できまい。朝日が窓から入り込み、埃があの時の雪のように、きらきらと輝いて落ちてくる。

「…具合は」
「……えっ…あ、だいっ…大丈夫です…!」

暫くの間使われなかった所為か、舌が何度か口内でもつれたような、たどたどしい答え。
あれほど乱雑に扱ったというのに、怯えの少なさにスネイプは憮然としながら、つられて口をつく。

「そうか」

思ったよりもずっとそっけなく響いた言葉に、眉間のしわを濃くさせて、威厳を強めたが、自身のことでいっぱいのは気がつかなかった。その様子を窺いながら、顔色の悪さを自負しているスネイプは、同等か、それ以上に映る少女の頬に心が惹きつけられる。先ほどまでの憂が嘘のようで、跳ね上がる熱に舌打ちをせずにはいられない身勝手さに、嫌気が差してしまう。

「わ、たし…」
「…なんだ」
「あ…いえ、今、何時頃ですか…?」

何を世迷言を、スネイプは思い切り不服を顔に出すと、はすこしばかり調子を戻したようで、身体を縮こまらせた。
困惑を唇にみせたことが、機嫌を損なうのを危惧していた、ことに気付いて一層面白くない。長い間夢を彷徨っていたのだから、陽の感覚が分からなくても仕方がない。折角のいい出だしが、自ら悪手にさせるのは慣れたものだ。

「談話室に眠気まなこが集まる頃合いだろう」

は布を引いた時のような、肥えた瞳で辺りを見渡して、頬に睫毛の影を作ると、また迷うように唇を震わせた。スネイプは何故かそれが酷く気に入らなかった。散々な眼に合わせておきながら、抱く感情ではない、そう一度は解したにも関わらず、全く面白くなかった。

「…そうですか…わたし…このベッドにどれくらい居るのでしょう…?」

それはの不自然なまでの落ち着きか、手を加えた記憶の元でも隠しきれなかった趣が、明らかに見えなくなったからか。平然と問いを投げかける姿は、過去のどれとも噛み合わない。体温を上げた心臓は、失踪して冷え切るのが手に取るように分かる。余分を省いてかい摘んだ答えを出すのは、男にしてみれば朝飯前だった。長い睫毛はスネイプへ向かず、仕切られた布の先へ飛ばされた。

「そんなに。それだけ寝たら身体が重たいのも当たり前ですね」
「………」

膨れ上がる苛立ちは、どんどんかさを増して大きくなり、もうすこしいけば本人ですら制御は困難を極める。
ビー玉のような瞳は男を避けたまま、他所にぽつりと溢す。
スネイプは内側にしまい込んだ指先で、スラックスをなぞり、切れ目を探した。違和感は指先に伝わり、触り心地の悪い残骸が手のひらに移る。

『約束』と豊富な唇が空気を吸う。髪の毛が頬に降り、横顔から窺えるのは、唇をやや突っぱねて、拗ねたような少女の姿。僅かに瞬いた羽は数分前、男が含んだ憂鬱をちらつかせる。情の枠をくぐり抜けた情熱の端を眼の当たりにした、そんな疎外感に苛まれたスネイプの眼光は深まったが、頑なに視線を避けた少女に知る由もなかった。

「…薬は飲んだのかね」
「…えっ…」

耐えきれなくなったのは気が付いた男の方で、サイドテーブルを一瞥した為、詳らかな事柄を素知らぬふりをして口にする。なみなみと残っている薬瓶へ意識が向かえばいい、とスネイプは手のひらで焼かれ炭と変化したそれを、切れ目に戻した。約した相手の証拠を、秘密裏に処分するような手際の良さだった。そして、見事に落とし穴へと落下した興味は、スネイプと同じく薬瓶を見つめる。

「の、飲みました…」

ガラスの反射から男の沈んだ両眼が、少女の双眸を捉えて、縛り上げようとする。
閉心術の名手からしてみれば、ガラス越しでの呪いは赤子の手をひねるよりも容易で、相手がそれなりの熟した少女ならば、咎が少ない分余計だ。すっかりがんじがらめにされたは、飲み水らしからぬ色味に圧倒されているのか、スネイプの鋭利な刃がいつ突き立てられるのか、と液体の上で揺れる表情は固まっていた。

しどろもどろになった言葉のふしぶし、なみなみに注がれた瓶をみれば、取り繕っている事実をスネイプは咎めもせず、かといって相槌も打たなかった。
沈黙を手にした男の瞳は、液体の揺らめきをも押しのけて、その向こうで不安に駆られる瞳を捕まえたまま離さない。

ガラス越しの強固さは、間に挟めなければ捉えられない臆病さを浮き彫りにさせて、決断を鈍らせる。スネイプは気がつかなかった。微かな動揺が、腕を鈍らせたようで、開けようとした扉を見誤った。それと同時に、男のような色味を持った指先が、力一杯決心をしたように、シーツを引っ張ったことにも。は何色か判別のつかない薬品から視線をあげて、干渉のない闇色を射抜いた。

「…教授、私は大丈夫です」

鈍器で殴られるような衝撃が身を襲う、とはこのことかとスネイプは思う。
鍵を取りこぼしたばかりか、全貌を察した少女の瞳ばかりが、生命の輝きを増やす。それに反発する闇は、手に負えない深さまで染まっていった。幾度となく手放そうと躍起になった自身を、どんなことをしても掴んでいた小さな手のひらが、重たいローブを突き放していくのを、肌で感じた。

「……我輩は、」
何故、呼び戻されたのか。疑問を議論する余裕は既になかった。
闇に穴を開けられそうになる瞳を避けて、鼻筋を通り唇、それに手をかす顎筋へと視線はくだっていった。

「…何も。…あとはひとりでなんとかできます」

だから、と空気を吸い上げ、下唇が前歯の下敷きになるのが見えた。
夏の間、煩わしさを片隅にやるほどに、時間を共有はしたが眼にした覚えのない仕草だった。知られてしまった、愚かしい行為に弁解をも遠ざけられた後では、成す術はない。しかし、もとは手を下した本人の意志があってこそ。願望は叶えられたかのように思えるのに、青白さは増すばかりで、双眸に挟まれた縦線は濃く深く終わりが見えなくなりそうだ。

「そうか」

少女のひとまわりも歳を重ねておきながら、スネイプはそれ以外を紡ぐ手立てを知らない。口下手な自身が、この時ばかりは酷く悔やまれる。

ははじめの時のように、睫毛の影を作ると、それから再びスネイプの方を向くことはなかった。
アイボリーの布が少女をサナギにさせる。この時、ローブを押しあげれば、湧き上がる欲望の端くれを手にできるというのに、しなかった。出来なかった理由は分かっていた。

「ダンブルドアには伝えよう。容体は良好だと…薬は飲むように」
「………はい」
「……Ms.、」
「………」
「貴女は自由だ」

スネイプは波打つ心臓を置いていこうと決めて、盛り上がった布へ滔々と告げる。返ってきた言葉もまた、なんの感慨もない、といった様子だった。淀みのなくなった声色は、元の教師と生徒という立場を不動とさせ、そこから崩す行為は困難だ、とふたりは思う。振り出しに戻すように、スネイプは再び囲いに手をかけて、扉の先へ向かった。やっとはじめて、スネイプとの意識が同じ方角へ向いた瞬間だった。