( 05:見つめあえる距離のまま )

「Ms.、この後残りたまえ」

冷や汗がどっと流れ落ちるのを感じながら隣にいるべスは想い人に呼ばれたを羨ましがった。
変わってもいいのなら是非とも変わって貰いたいと思ったが陰険教師の手前そんな事は云えずに曖昧に笑った。

グリフィンドール寮に戻ってから気付いた事は先ず自分が信じられない程に汗をかいていた事だった、春が終わり始めたからと云ってまだまだ涼しいにも関わらずだと余程怖かったのだと心臓の音と汗の量の多さに声が洩れる。そして睨まれた時思わず落としてきてしまった本。口実の為に持っていた本はあろう事か魔法薬学の教科書だった。落としてきたままにしたそれを取りに戻ろうなんて愚考だと思ったがあれがなければ逃げた以上の仕返しが待っているに違いないと恐る恐る中庭に戻ってみたが蝙蝠のような男は既に居らず、自身が座っていたベンチに向かってみても教科書は何処にも見当たらなかった。もしかして、と思わなくても教科書は確かにそこには存在していない事から当然思い当たる人物は一人しか居ない事には逃げなければ善かったと今更後悔したのだ。しかし、減点への恐怖はなく、皆が眼を剥いて驚く事に彼は予備の教科書をに差出し何も云わずに授業を再開したのだった。

今回ばかりは逃げる手立てもなく大人しく他の生徒がいなくなるまで講義を受けていた席に座っていた。最後まで一緒に残ると云い張ったべスと共にいれば少しは怖くないだろうかと授業の片づけをしている教師の方を一瞥する。今日はの視線に気付かずに精密機械のような無駄のない動きをしていた。その様子をべスは眩しそうに見ているものだから何がいいものなのだろうかともう一度その姿を視界に入れてはみるものの、にはさっぱり分からなかった。

「もう帰りたい…」
「何を云ってるの、こんなチャンスまたと無いわ」

強く意気込んだ彼女を他所にこんなに積極的な姿を見るのは珍しいと驚く。
そんな二人の生徒を置いて他の生徒が早足で階段を駆け上がっていくのを見届けたスネイプは片付けの手を止め、顔を上げるとそこには残るようにと声をかけて置いた女子生徒以外にもう一人いる事に気付く。只でさえ教鞭を振る授業でまともに受けられる生徒が滅多に居ないスネイプは余計に不機嫌になり顔を顰めた。

その雰囲気の違いに気が付いたのか隣に座っているべスは身体を思い切り強張らせた。隣に居る仕方なしに呼び止めておいた方はそんな変化に気付きもしないで顔を真っ青にしたまま何も無い壁を見ていた。いい気味だと思いながら教壇から降り、靴の音を態と鳴らして生徒席へと近づけば顔色を益々悪くなっていくのを感じ唇の端がしかと上がるのをスネイプは感じていた。

「残っていろ、と云ったのは一人だけだった筈だが?」

その言葉に顔を青くしたままは私が頼んだんです、といつものような覇気のある態度は何処へやら誰も居ない静かな教室でさえ聞き取る事が難しい程小声で呟いた。訝しげに眉を寄せたスネイプを他所にべスもの異変に気が付いたのかその顔を覗き込んで悲鳴を上げた。途端目の前の身体が傾いていくのをスネイプは床すれすれの処で掴み上げる。腕を掴んだまま持ち上げればそのまま抵抗する事なくぶらりと身体が引っ付いてくるそれを見やり、膝の下に腕を入れ軽々と持ち上げた。

放心しているべスに向かって声を荒げれば気が付き顔を上げる彼女にスネイプは名前を思い出そうと眉間の皺を増やした。自身の腕の中で眼を頑なに瞑ったままのを見下ろした処で何も語る筈がなくスネイプは視線を上げる。名は確かべス・ナイマンとか云った、と女子生徒の顔を再度見る事によって思い出された。べスは持ち上げられたを心配そうに顔を覗き込みながら戦々恐々と云った普段の学生達が見せるような表情ではなく、云うならば憧れを抱いている、否それ以上の感情を持つ者の顔にスネイプは見分けがつかない程度に眼を見開いた。スネイプは常に誰であろうと寄せ付けないようにと細心の注意を払いながら、過ごしている筈だ。ましてやグリフィンドール生に対してはそれ以上の行いとしていると自覚もあるのだ。今目の前に居るその寮の女子生徒は煌めきを確実にスネイプへと向けていた。

「心配ない、気絶しているだけだ」
何処へ行くんですか、私も行きますと背後で放つ声を否定し、己の寮へ帰るようにと言葉を紡ぎスネイプはするりと全開の四分の二程度しか開いていなかった扉を通り抜けていった。

追いかけてくる様子のない生徒に安堵の溜息を一人で零しながら医務室へと足を速める。にしてもあのタイミングで倒れるとは全く運の善いのか悪いのかスネイプには分かりかねていた。己にしてみればこうして態々医務室まで運ばなければいけないという迷惑極まりないのだが、と脳内で小言を浮かべてみても吐き出せる相手がいなければそれは自身にしか吸収されなく不完全燃焼だ。しかもこの間の事で罰則を与えようとしていたのだ、それもスネイプの苛立ちに拍車を掛けた。階段を下りていくスネイプに通り過ぎ様の生徒達は彼の腕の中で真っ青にし、気絶している女子生徒を見やり、そして漆黒の男を見上げ何時も以上の形相に彼が通る先々は蜘蛛達が散る時の様子そっくりだった。