( 09:涙の温度は海に似ていた )

「困った」
文字通り彼女は困っていた。あれから二日経ち、来週から休みに入ってしまうというのにまだ行き場所が決まっていなかった。背に腹は変えられないと思い他の友人達にも当たってみたものの皆、揃って恋人が出来たばかりの見ている此方が恥ずかしくなってしまうくらいの溺愛カップルばかりだった。それを聞いた途端自分の方から断りを入れてしまう程だ。教科書を持ち、予定の時間より五分早めに教室に入ればそこには追いかける理由もなくなった教師が部屋中を歩き回り道具を準備している処だった。自分以外にはまだ誰も居らず教師と二人きりなのかと思いながらも着席すれば自然とその視線が此方へ向かってくる。

遅刻を全くしなくなったに物珍しい視線を寄越すのは最初の二、三回程度で遅れる事がなくなったと確信したのかその眼は興味を失くしたように道具へと戻された。黒いクロークが揺れるのに、眼を向ければ運悪く、交わってしまう目線にはすぐさま逸らし、そ知らぬ顔で見る気のない教科書を開いたりしてみた。一秒が何十倍にも膨れ上がり息が詰まる思いをする中で、何も紡がず黙々と作業をしている魔法薬学教師は不思議と嫌いじゃない。この思いは何処から湧いてきたのだろうと突然の感情の緩和に驚いているといつの間にか時間は過ぎて、気が付けば教室には他の生徒が一瞬の間に現れたかのような錯覚を覚えた。

「最近早いわねえ、」
「今日は早く着き過ぎちゃった」

彼女の友人の一人であるアマンダは隣の席に腰掛けながら感心したように云った。
そのお陰でとても不穏な空気を五分間吸う事になった事は告げず、授業を開始するスネイプの声には素直に従う。アマンダもそんな彼女に従って前を向いた。ベスはの後ろの席に恋人と座るそれを背中で感じながら、冷やかす気にもなれずいつものようにねっとりとした話し方をするスネイプの言葉に耳を傾け、頁を捲る手が微かに白くなった。一部だけ握りつぶされてくしゃくしゃになった頁を丁寧に広げれば痕はくっきりと残り汚した。自身が苛立っている事を示していたが、それが何故なのか答えは出て来ず、早々考える事を諦め材料を取りに席を立った。

実験結果は散々なものだったとスネイプの唇が物語っていた処から逃げ出したは時間を守った処で彼の機嫌が善くなるわけじゃないのだと感じた。元々手先が器用ではない彼女にとって魔法薬学と云うのは最大の天敵と云っていい程なのだ、と言葉を包んでみるものの一層虚しくなるだけだと思い止める。それよりも昼食が愉しみだと気分を変えて廊下を歩けば知らない間に片足が交互に浮かんでいるのを地下室途中にある絵画に注意され気が付く。先程の苛立ちとは真逆である自身の機転に驚きながらも、偶にはこういう日もあるのだろうと一人で完結させ大広間へ高鳴る気持ちを持ちながら足を交互に動かした。

大広間は既に空腹に耐えかねた生徒達で溢れ返っており、空いている席と云えば最前列だけだった。あまり目立ちたがる事が好きではないは(の割りには遅刻等で目立ったりしていた)不服そうな表情を作るも、このまま何も収めずに帰るわけにも行かず仕方なく一番教師席に近い席へ向かった。そこには既にダンブルドア、自身の寮監であるマクゴナガル、先程も脳裏にこびり付く程拝見したスネイプ(やはり厳格そうな顔をして食べ物を租借している)、そして他の教師も皆席に着き各々好きなものを口に含んでいた。足を上げて椅子を通り越し机の下へ足を滑り込ませる。

「……、」

かぼちゃジュースに手を伸ばし、大好物のパイをお皿に盛る。中身は牛肉と牛の肝臓を包み込んだ、キドニーパイを頬張った。彼女の母国日本では中々食べる事のなかったそれは、定番となり今やご飯よりも此方の方がしっくり来るようにまでなっていた。それはに幸福を与えてくれる、幸運の食べ物だ。思わず、笑いが零れる彼女を可笑しそうにする向かい側の席の男に視線をやれば、それは途端に微笑みに変わった。

「君、美味しそうに食べるね」
そう云う男のネクタイは金と赤のストライプ、しかし見た事の無い顔つきにパイを頬張る口は緊張する。男友達はからきしのには認知していない相手、しかも異性だと云う事で身体の硬直は酷くなる。男、グリフィンドール生はの態度を可愛いと形容し、それが彼女の身体を解す処かそれに拍車をかけたに過ぎず、眼下で落ちていくパイ生地に気付かない程、うろたえた。

「あ、」
「君とは一つ上だから知らないのも無理はないね」

屈託の無い笑顔は彼女にとって緊張を解すものにはならず逆の意味を作ってしまっていた。それに気が付かない同寮の男はのローブ下に落ちた食べ零しを態々隣までやってきて口に運んだ。(その際残りのキドニーパイも落としてしまう)美味しいと言葉を紡いだ男に恐ろしくなった彼女は逃げようと思い立つも身体は変な固まり方をしたのか動かそうとする度に骨が軋んだ。誰か助けてくれないものかと視線を彷徨わせながら救いの手が差し伸べられるのを待ってみるが、運悪く交わるのは何故かいつも陰険な雰囲気を撒き散らしながら歩くような男だった。

「あの、っ!すみません…私失礼します…!」

それまで言葉にならなかったものが口からするりと抜け出し、は自身でも驚愕した。身体が勝手に意思を持ったように大広間の出口を目指す足音を他人事のように感じながら気が付けば図書室の奥の椅子に座っていた。あのままグリフィンドール寮へ戻ればまた出会う事を危惧した為の無意識の行動だった。椅子に身体を預けて初めて自身が本に囲まれている事に気付く。間を置いて振り返ってみると彼女はじょじょに同寮の見知らぬ男が憎くて仕方なくなった。彼女の大好きなパイは半分ともお腹に納まる事はなく落としてきてしまったし、かぼちゃジュースも、だ。つまりは食事をきちんと取れなかった事に憤慨している。しかしだ、何故急に身体は動いてくれたのだろう。あれ程助けを求めていた自分が、と記憶を逆再生し戻してみても覚えているのは膝へ落ちていくパイ屑と、それを教員席で見下ろしていた男の眼。